【釈迦-第01話】34歳の男の転職理由は前向きだったのだろうか?



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ノンフィクション・連載ストーリー「新・釈迦から助けられた男(実話)」にご興味をお持ちいただき、ありがとうございます。

本ストーリーは、今から約5年程前まで、スピリチュアル部門のブログランキングで、全国第1位をいただいていた作品です。
※当時は、”新” を付けていませんでした。今回は、リニューアル版として “新” を付けてお届けしています。

この作品は、私が34歳の頃、人生初となる大きな挫折を味わい、鬱病を患い、更にパニック障害を併発し、挙句の果て自殺を試み、そして、そこから人生のV字逆転を果たすまでの約半年間のノンフィクション・リアルストーリーとなっています。

『V字逆転』が出来たキッカケは、今思い出しても信じられないような “ある摩訶不思議な奇跡体験” だったのです。

この奇跡体験の部分については、特に忠実に書き綴りました。

最初にこの作品を書き始めた当時は、Facebook、アメブロ、そして、WordPressで作成した独自ドメインのサイト上に掲載しました。

そして瞬く間にメジャーとなって、最もランキングが難しいとされた『スピリチュアル系ブログランキング』にて、初回から最終回までずっと第1位を獲得させていただきました。

その時に、Facebook上のある方から「○○の部分をもっと□□に表現すれば、映画化もできると思うよ」なんてメッセージもいただきました。
※実は、そのある方は、本物の映画監督だったのです。

そんな作品ですが、実は内容があまりにも深く濃すぎることと、表現がリアルすぎてしまったために、ネット上にいる現実世界で悩み・苦しみ・もがいている全国の方々達から、”どうか助けて欲しい” といったメッセージも多数寄せられるようになっていました。

この当時の私はまだ、“人選” ということが上手く出来なくて、一人でも多くの方へ救いの手を差し伸べてあげたいと一心で、間口を広げ、深い悩みを持つお方一人一人と真正面から向き合って参りました。

そしてその結果、ネット上にいる心の奥底に深い傷を負った数名の方からストーカーに遭い、私はネット上から姿を晦(くら)ましてしまったのです。

 

「え?びび太さん、大丈夫なの??
そんな過去の経験があって、
再び作品を公開するって危険なのでは??」

 

そう思われるお方も、きっといらっしゃいますよね?

大丈夫です、私はこの5年間の間に、大きく変わりました。

 

“人選” の大切さを強く知りました。

 

今、私は力強く生きる仲間達に支えられて生きています。

その仲間達のため、そして、これから私達の仲間に加わってくださる方達のために、『新・釈迦から助けられた男(実話)』を完全リニューアルした形でお届けしたいと思います。

 

それでは、リニューアル版 “新釈迦” をお読みください♪♪

 

いきなり大手外資系企業からのヘッドハンティング!びび太は退職するのか?

 

 

 

花祭りの夜、私はお釈迦様から助けられて異世界の不思議体験をした…

 

 

時は、2003年夏の頃のことである。

蝉の鳴き声が街路樹に響く中、外の暑さなんて無縁のガンガンにエアコンの効いた鉄筋コンクリート製のビルの一角にあるオフィスの中で仕事をしていた時に、私の携帯電話に1本の電話が入ってきた。

電話帳に登録していない電話番号だったのだが、どういうわけか咄嗟に私はその電話に出てしまった。



「はい、びび太です…」

「びび太さんの携帯電話ですか?」

「はい、そうですけど、どちら様ですか?」

「突然のお電話で大変申し訳ございません。私、日本○○○○株式会社の人事担当の○○と申します。今、少しお時間よろしいでしょうか?」

「あ、は、はい。大丈夫ですけど…」

「実は、あなた様の事を知りまして、富○通さんで特許を取得されていますよね?」

「は、はい。。でも、それが何か?」

「私どもは、びび太様のことを高く評価しております。もしよろしければ、一度お会いしていただけませんでしょうか?」

 

最初はこの電話が一体何を意味するのか、全然わからなかったのだが、「お会いしていただけませんでしょうか」の言葉のあたりでハッと気づいた。

 

 

(これは、ヘッドハンティングかもしれない!)

 

 

ここで、上記の電話主は “日本〇〇〇〇株式会社” という会社だが、おそらく実名を出してもご存知だという読者のお方は少数だと思うので補足する。

今から15年以上前のストーリーなわけだが、この日本〇〇〇〇という会社は、今でいう『GAFA(Google、Amazon、Facebook 、Apple)』のような外資系企業だったのだ。マイクロソフトの次に大きな会社だったのである。

 

この日本〇〇〇〇という会社は、びび太が20歳の頃に求人広告を見て面接を試みた就職先だったという事実。

ここで、少しこの当時の時点よりも、更に15年ほど前に遡(さかのぼ)ります。

私・びび太、20歳の頃のオハナシです。

実は、この日本〇〇〇〇という会社に対して、20歳になったばかりの頃に、転職しようと履歴書を送ったことがあるのです。

というのも、18歳で高校を卒業した後、私は関東の派遣会社で働いていました。

その派遣先で、運良く、日本〇〇〇〇のデータベースのソフトウェアを使う機会に恵まれ、1年間でかなり使いこなせるようになったのです。

当時、このソフトウェアを使いこなしている日本人は少なくて、元々、数学が得意だったこともあって、水を得た魚のように時間を経つのも忘れてマジシャンのように使いこなしたのです。
※ちなみに、私はこのソフトウェアの最上位の国際資格を保有しています。

派遣会社に勤めて3年目の冬、20歳になっていた私は、次のように考えたのです。

 

「今の日本は、高学歴社会で、大手企業に就職し、年功序列制度によって給料がアップし続けているが、米国の企業ならば、その企業のエキスパートになれば、日本に居ながらにしてアメリカン・ドリームを手に入れることができるかもしれない」

 

1年間で、日本〇〇〇〇のデータベースソフトを使いこなせるようになっていたびび太青年は、この野望を抱き、この日本〇〇〇〇へ転職しようと企てたというわけです。

この当時は、求人情報も乏しく、就職を斡旋してくれるようなエージェントも居なかったため、履歴書に志望動機をビッシリと書いて郵送しました。

そして、日本〇〇〇〇の面接をイメージしました。どんな面接官であっても、きちんと質問に答えられるようにシミュレーションを繰り返していました。

 

  • どんなキャリアを持っているのか?
  • 前職での不満は何か?
  • NGキーワードは何か?
  • 技術者だけではなく、営業マンとしてやっていけるのか?
  • 採用になった場合には何をやりたいのか? 等々

 

しかし、待てど暮らせど、面接の案内が届きません。

私は、絶対に自分の想いが米国企業に届くことを信じてずっと返事を待っていました。

そして、約1ヶ月後に、封書が送られてきました。

そこには、

 

「不採用通知」

 

という題名が印字されたレターが1枚入ったものでした。

 

びび太には、こんな過去があったのです。

 


 

私は、少しばかり動揺しつつも平常心を装いながら、その人事担当者の方と会う約束をした。

少しばかり冒険をしたいという、心のどこかに隠してあった男の願望がその電話でくすぐられたのかもしれない。

当時の私は、完全に企業戦士と化しており、家庭を顧みることなく仕事に没頭していた。

月曜日から金曜日までの平日は、帰宅が終電になるなんてことは当たり前で、顧客のシステムトラブル等があると、問題が解決するまで徹夜することも度々あった。

完全なる企業戦士の私に、社内で当時付けられたあだ名は、“ファイヤーマン(消防士)” だった(笑)
※火だるまになったプロジェクトを消火するサラリーマンという意味w

しかし、働きまくっていた当時の私は、このあだ名は「まんざら悪くないな」とも内心思っていた。

理由は、仕事の第一線で活躍できていることや、締切や顧客のトラブル対応等、まるで戦場のようなところでも仕事の成果を上げることにやりがいを感じていたからである。

当時は、気力も体力もある30代ということもあって、自分の体に少々無茶なストレスを掛けてでも仕事にのめり込んでいた。

会社内での私の評価は、常に満点だった。
※今でも、このような評価をくださった当時の上司や同僚の方々に感謝しています。

ある日、社内の360度評価という、上司・同僚・部下(女性・男性の両方を含む)からの評価が富〇通社内過去最高値であることを初めて知った時には、この有難い結果に、人目を憚(はばか)らずに、号泣したこともあった。

だから、私は2003年までお世話になっていたこの会社を辞めるなんてことは、まず考えてもいなかったし、恐らくは誰もが私がその会社を辞めるなんて思ってもいなかったと思う。

そんな私が、仕事中に突然掛かってきた1本の電話により、高い評価を得ていた会社に対して2003年12月に辞表を提出したのである。

木枯らし1号が吹いたというニュースが全国をかけめぐる頃だったと思う。

年齢は、34歳になったばかりの頃だった。

当然、周囲の驚きは壮絶だったし、私自身も何故こんなに愛している会社を辞めたのか未だに謎に思っているほどだ。

それくらい、衝動的というか突発的な行動を取ってしまったのである。

 

当時の直属の上司(課長)からは、「びび太は、言っても聞かないもんな」と、私の性格を知り尽くしてくださっていたので引き止められることはなかったのだが、その更に上司(部長)の方からは「畑違いのところに行ってどうするの?失敗するよ」とクギを刺された。だが、私は辞表をその場で渡して、自分の考えを曲げることはしなかった。

 

びび太の過去。今、思い出しても酷い男だった…。

ちょっとブラックな話になるのだが、、、

2003年頃の当時34歳の私の年収は、8桁(1,000万以上)あった。

完全に若気の至りで今振り返るととても恥ずかしいのだが、自分で自分のことをビジネスマンとして成功しているような気分になっていた。

私は30歳の頃に戸建てのマイホームを購入し、ガレージやサーフィン用の小屋も設置して、年相応以上の豪華な住居環境を手に入れていた。

1本十数万円もするようなサーフボードも何本も買い、週末は近所の海岸でサーフィンをする暮らしをしていた。

サーフィンが終わった後は友達を自宅に呼んで、庭でバーベキューを振舞うなどの贅沢三昧な生活。

一人息子もすくすくと育ち6歳になる頃だったので、お金も、家族も、子供も、マイホームや車も、人生で欲しいと思うものはすべて手に入れたような感覚になってしまっていた。

そんな風な若気の至りと、サラリーマンなのにビジネスマンとしての成功を手に入れているかのような勘違いをして、かなり天狗になっていた私は、ある時、妻に次のように言った。

 

「俺と結婚して良かっただろう?」

 

今、思い出しても、顔から火が出る位に恥ずかしすぎるこの言葉を、よくもまあ口にしたものだ。このバカな30歳の男は…。

16歳の頃から恋愛に恋愛を重ね、そのまま結婚した妻が、無言で小さく頷いたのを視界に捉えて、そしてまた満足している自分がそこにいた。

15、6年前の私は、夫婦関係はそこそこよかったと自分では思うのだが、客観的に見て史上最悪のダメ男だったと、今になると心からそう思う。

当時のこのようなワンマンでダメンズ的な思考では、確実に結婚生活は破綻するコースだと誰もが思うことだろう…。

 

そして、びび太は転職を決断…。しかし、既にこの時点で心は乱れていた。

実際、辞表を出して迎えた2003年の年の瀬は、真綿で首を絞めるような、なんとも複雑な心境に陥り始めていた。

 

この決断は正しかったのだろうか…

 

自分で決めて自分で行動したことなのでストレスは皆無だったが、心のどこかで自分の意思とは違った方向に、衝動的に舵を切ってしまったような感覚を否定することができなかった。

しかしながら、ヘッドハンティングされた会社への入社は、刻一刻と迫っている時期だったので、もう後に引き返すことはできなかったし、誰にも相談することはなかった。

そのため、2003年の大晦日近くになると、「髪の毛は思い切って茶髪に染め上げようかな」とか「車を外車に買い替えて出勤するかな」とか、本当に今思えば、この思考回路は何だったんだろうと思うような状態で、既に入社前から精神状態がおかしくなっていったように記憶している。

 

こんな精神状態の中で、ヘッドハンティングされた会社の入社日を迎えた。

2004年1月1日だった。

この会社はバリバリの外資系企業だったので、勤務日も日本の暦に沿ったものでは無くても良く、「節目としてはいいかも」くらいの軽い気持ちで、正月の元日を転職日として自分で設定していた。

更に、この会社には東大・早稲田・慶應といった一流大学出身者が多数いることを知らされていたので、見えないプレッシャーのようなものを感じていたのも事実であった。

私は高卒で社会人デビューし、当時1980年代の頃は、学歴の差が収入の差になる時代のあおりで、収入面でかなり悔しい思いをしてきた。元日入社という破天荒な行動を取ったのも、学歴コンプレックスが34歳(当時)になっても残っていたのだ。

 

そして、2004年の幕が遂に明ける。

 

(つづく)

 


《次回の予告》

次回は、ヘッドハンティング先の会社に転職後の話に入る前に、とても不思議なことにその会社に過去、履歴書を送って断られていたという苦い経験があった話をしたいと思います。


 

目次
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コメント

  1. 寺内 久夫 より:

    過去に一度読んでいますので、今回のさらに内容が濃くなる、理解しやすいことに期待しています。僕も、伊藤忠商事の商社の企業戦士で、1970年に入社した翌年から、毎月 180時間の残業をしていました(30日x6時間)、輸入繊維部での仕事で、1973年のカナダ出張を皮切りに、すぐ病気の先輩と交代して、イタリに海外出張を繰り返し、ブランド品のイタリアメーカから、日本の総発売元に、イタリアの現地メーカで売買同時成立の仕事をしていました。1回イタリアにゆきますと、40日から50日の滞在で その期間6-7社と契約をします。イタリア7回目あたりで、すっかり慣れたころに、ストレス、不規則な時間の食事などで、飛行機恐怖症になり、30歳から63歳まで、33年間、パニック症と戦いました。飛行機に乗るのは、死との闘いのごとく感じたこともありました。強い薬、禁じられていた静脈注射、お酒の力を借りて、給料をもらうため、必死にイタリアで計13回、香港に153回 海外出張しました。44歳で海外出張の無い、国内勤務の子会社に出向しましたが、新幹線恐怖症との闘いにかわりました。44歳から地元明石市の、日蓮正宗のお寺(菩提寺)で、総代、講頭の役職を24年つとめましたので、僕の宗教観が、パニック症との闘いで大きな役割を果たしました。びび太さんの、お釈迦さまとの出会いの意味は良くわかります。釈迦→天台大師→伝教大師→日蓮大聖人の流れで、末法の御本仏 日蓮大聖人に帰依しています。常に 仏の慈悲を考え、感謝の気持ちを忘れないように しています。 続編は又の機会に お話しします。

    • びび太 aibrain より:

      寺内さん、本名でのコメントのご投稿、とても嬉しく思います。
      ※私の実名でコメントをお寄せいただいておりましたので、先ほど、修正させていただきました。
      (修正できることを知りませんでしたもので、コメント承認が遅くなりまして大変失礼いたしました)

      信仰心はとても大切だと思います。

      私は特定の宗教をどうのこうの言えた身分ではございませんが、日蓮大聖人の教えはとても大切だと存じております。
      どうぞ、今後の展開にもお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。^^

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