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こんにちは。
オトメと申します。☺
今このページに辿り着いているあなたへ、貴重なお時間を割いていただき大変感謝しております。
プロフィールおよび連載ストーリーを読まれた方でもそうでない方でも、きっとこのサイトの何かにご興味を持たれてお越しくださったのだと信じております。
最近ようやくプロフィールおよびオトメのここ数年の激動のアメリカ人生を綴った連載ストーリーが完成し、
気づけば日本、アメリカ、オーストラリア、フランス、ドイツなど方々からアクセスしていただけるようになりました。
オトメと一緒にこれからもアメリカのオトメ日常の疑似体験を楽しんでいただけることを願います😊。
さて今回のコラムは「アメリカのバイデン大統領と私の不思議な縁」についてお話ししてみたいとおもいます。
バイデン大統領のとんでもない経歴
2020年のアメリカの大統領選挙では、コロナ禍とも重なってアメリカではとんでもないお祭り騒ぎとなってしまいました。
この大統領選挙は歴史的にも大変大きな意味を持ちます。
それというのも、これまでの大統領選挙というのは必ず学校などの公共施設に直に出向き直接票を入れなければいけませんでした。
選挙の当日は朝から近所の人たちの長い列がならび、辛抱強く自分の投票の番が来るのを待っていたものです。
選挙はいつも11月に行われますから、朝早い時間というのは結構冷え込む時期でして、それでも最後の最後まで投票に影響を与えようとキャンペーンの人たちがドアの近くに待ち構え、パンフレットやリーフレットを投票者に配り歩く光景で溢れていました。
最後に近くの小学校で大統領選挙が行われたときは、トランプ大統領が当選した2016年でしたから、もうそれはそれは列に並んでいる人の肌の色を一目見ただけでヒラリー・クリントンかドランプ氏かどちらに投票するのか大体見当がつく、といった奇妙で何とも居心地の悪い状況だったのを今でも鮮明に覚えています。
アメリカ人を相手に宗教と政治の話はするな、と言われるほど政治に関する議論というのはよほど気の知れた間柄でないと避けた方がいい話題とされていますが、
それだけに大統領選挙の当日の寒い朝の雰囲気というのは、いつもハローハローと手を振りあってニコニコしながら散歩中にすれ違う近所の人たちが、まるで全くの別人のように変貌してしまい、
眉根を寄せて携帯をひたすらいじっているとか、見て見ぬふりをして知らんふりしだすとか、朝の挨拶もなしに何か言いたげな顔をして遠くから見つめてくるとか、何だかとてつもなく不自然な光景が繰り広げられるんです。
まあ一言で言ってあまり気分のいい雰囲気ではないんですね。
とにかくさっさと一票入れて忙しい一日を乗り切りたい、そんな気持ちでみんなどことなくそわそわしている様子です。
それが2020年の大統領選挙の時点においては、直に出向いて直接票を入れるという以外に、最も一般的な投票方法がなんと実はMail in Ballotといって郵便投票だったんですね。
これは完全にコロナ禍の影響でして、もちろん敗北した側はやらせだとか何とか今でも騒いでおりますが、要するにソーシャルディスタンスを守るために、近くの公共施設にそれ用の郵便箱を設け、数か月にわたって郵便投票を国民に奨励し続けたのです。
そのために、今度は開票するにもかなり時間がかかってしまい、本来であれば一晩で結果発表になるはずが、火曜日の大統領選挙があって以来、四日後の土曜日の午前中にまずはグーグルの情報でそして後追いするように各ニュース局によってバイデン氏の当選が決まりました。
しかもバイデン氏は過去最高数の票を勝ち取って当選したそうです。といいましても、この郵便投票には数多くの問題があるに違いないといろいろ陰口もたたかれていますが。
このバイデン氏って実はメチャクチャドラマチックな人生を歩んでいる人でもあるんです。
まず78歳という年齢で大統領就任を果たしました。大統領就任年齢としては過去最高年齢だそうですね。
そして、なんと彼はオバマ大統領と共に八年間しっかりと副大統領を務めておられます。
つまり、副大統領も大統領も両方務めるなんて異例の方なんですね。
彼はずっと大統領になりたかったそうです。やっと悲願がかなったというわけです。
そしてまた、このバイデン氏、副大統領または大統領に就任されたときの相棒がオバマ大統領およびハリス副大統領、というのがまた史上初の有色人種とパートナーシップで政権を握るという白人官僚でもあります。
そして、ハリス副大統領は初の女性リーダーでもあり、その意味でもバイデン氏の内閣は歴史的な重みを持ちます。
もうこれだけでも、「いくつ「アメリカ史上初」がついてんだよ」、って突っ込みたくなるくらいとにかく歴史的な瞬間に多く立ち会ったのがこのバイデン氏ですが、
彼の生い立ち自体もまた珍しいんですよね。
彼はなんと日本でいう御三家を卒業していない初の大統領なんだそうです。アメリカではIVリーグなんていいますが、IVリーグには七つの大学が含まれます。
- ハーバード
- イエール
- コロンビア
- プリンストン
- コーネル
- ダートマス
- ペンシルバニア大学
トランプ氏も含め、歴代の大統領はみなこのIVリーグのどれかを卒業しているそうです。
しかしバイデン氏はデラウェア大学を卒業しており、これはデラウェア大学としたらもう本当に天にも昇るような快挙と言えるでしょう。
バイデン氏はそして非常に貧しい家庭の出身でもあるようで、要するにアメリカのミドルクラスの代表者ということですね。
アメリカ市民の多くの立場をご自身が経験されてきているので、政策や決断もおそらくかなり現実志向だといえるのかもしれません。
さらにバイデン氏はご家族に関しても大変な不幸を何度か経験されているサバイバーでもあります。
何と最初の奥さんと赤ちゃんを自動車事故で即死で亡くされており、もう普通だったらこれだけで中々立ち直れないものなんですが、
その後にも軍人さんでもありその後に薬物依存で苦しんだ息子さんをデラウェア州の大病院にて脳腫瘍で2015年あたりに亡くされています。
反対ごととはよく言ったものですが、なんと二回にわたってこういった個人的につらい経験もなされているんですよね。
まあだからと言っては何ですが、彼の肝の座り方は堂に入っていますね。ご自分の信念を貫き、コロナワクチン、アフガン紛争、ルイジアナ州自然災害、とどんどん襲い掛かる出来事をてきぱきと強い決断力で処理していっています。
これに対してアメリカ人によるバイデン氏への支持率が随分下がったとの報告もありますが、まあそれにしてもよくやるなぁと感心して彼のエネルギッシュな行動力に私オトメは日々圧倒されております。
バイデン大統領の演説に出くわす
実はしばらくの間デラウェア州にて研究活動をしていたことがあります。まだバイデン氏は大統領ではなく、確かトランプ氏が大統領の時だったと思うのですが、
たまたま母校のデラウェア大学をバイデン氏が訪れたことがあり、偶然にも彼の演説をナマで拝見するに至ったんです。
当時は、「ああ~あの副大統領だったバイデン氏かー」くらいの感覚で気楽な気持ちでその演説に臨みました。
演説の当日は大学キャンパスにあるそこまで大きくはないコンサートホールに出向きました。それほど大きくはない会場でしたが満席だったのは覚えています。
ところで、デラウェア州ってアメリカ合衆国で一番最初に州として独立宣言をし、さらに国で一番小さい州でもあるんです。
従って、デラウェア州の官僚やら権威を持つ人間達とこんな風にとても身近に日常的に触れたり結構簡単にできるんですよね。
そして州の中で何らかの重要な役割を果たす人間、例えば大学教授や病院の部長などもふくめ、皆お互い少なくとも名前だけは知っている、知らなくとも電話一本かければ大抵の場合組織のトップの人間につながることができ、簡単に自己紹介などすればもうそれで基本的な信頼を得てしまうことが出来るんです。
デラウェア州で仕事をしているとかデラウェア州出身だというだけで、一種の身内感でいっぱいになってしまうわけですね。
まあこれはアメリカ社会にいて、日本人だの同じアジア系の人間と知り合った時の親密感とも似ていると思われます。
それだけに、バイデン氏の活躍というのは州に関係する人たちの大きな誇りでもあり、彼の存在はデラウェア州多くの人間の心の支えとなっているようです。
なので副大統領はもう終えていましたが、それでもこのようにデラウェア大学に招待されて演説をしたりするわけですね。
当時でおそらく2016年くらいだったと思いますから、もしかしたらというか今から考えれば2020年の大統領選挙に向けての準備をそろそろと始めていたのであろうと思われます。
まずは地元から、というわけですね。
まず拍手で迎えられてバイデン氏が演壇に登場したときですが、私オトメは本当にびっくりしました。
すげー背が高い
ものすごい長身の初老の白人男性が登場したのです。
テレビで見ていると、オバマ大統領もおそらくそうだと思うのですが、周りの人間が同じく長身であるためか、あまりバイデン氏の背の高さが目につきませんでした。
ただ実際の彼はピンと姿勢よく、いわゆる「足長おじさん」の物語に出てきそうな足の長いスゴイ背の高い白人男性でした。
「へえ~、政治家の人ってやっぱり何歳になってもスタイルがいいんだなあ。」
なんてオトメもまずそこで目を奪われたものです。
そして、黒い革でできた大きめのノートくらいのサイズのバインダーを手に彼は教壇の前に立ちます。
合計でおそらく小一時間ほど演説をなさったと思うのですが、またそこでオトメはビックリしてしまいました。
一応バインダーを教壇の上に置いたものの、彼は一切それを開けることもなく、会場にいる観客を右から左、左から右、とゆっくりと見回しながらはっきりとゆっくりと演説をし始めたのです。
日本語でも言葉の合間に、えーと、とか、あー、とかいわゆるFilling wordsというのが英語でもあり、Well、とか、You know、とか言葉を一瞬探すために発する言葉なのでしょうが、
バイデン氏の演説はゆっくりくっきりはっきりしていましたが、一言もこういったFilling wordsを耳にすることはありませんでした。
まるで演説で何を言うのか全て記憶しているかのように、一言一言とても丁寧に大事に発していました。
そして、一瞬たりとも言葉に詰まることなく、まるで物語を聞いているかのように常に観客に語りかけていました。
それがあまりに滑らかで自然な様子だったので、本当に驚いたのを覚えています。
こういう政治家の人って、
演説のプロ
なんだなあ、と私オトメはポカーンと口を開けてそのカリスマ溢れる演説に聞き入っていたものです。
私オトメは基本的に落ち着きのない人間なので、たとえ踊りや音楽の舞台などを見ていたとしてもそこに物語性がないと、最初は面白がって来ていても五分も経てば飽きて気づけばうとうとしてしまうのが常なんです。
しかし、バイデン氏の演説はそういった意味で観客の注意を最初から最後まで引き続けたまさにプロの演説でした。
つまり、彼の口調というのは常に観客に語りかけ、そして物語性というか話に一貫性というものがあったんだと思います。
だから、物語を聞くように次は彼が何を言うのだろうと気になって仕方がない、そんな演説でした。
政治家の演説ほどつまらんものはないだろう、とタカをくくっていただけに本当に感動したのを覚えています。
やはり副大統領を務めただけある人間は存在感から知性から情熱から愛情レベルから半端ないんだなあ、ととても勇気づけられたものです。
私オトメは実は2000年より20年間ちょっとアメリカで生き延びてきてしまったサバイバーです。
そして一応これでもバツイチ子持ちの40代半ばの女性です😊。
勉強ができず、勉強が大嫌いで、何か面白い生き方はないか、と就職大氷河期であった日本を2000年に脱出したあと、
勉強ができる → アメリカでの研究者キャリアを築く
のではなく、
生き延びるために仕方なく勉強して → 気が付いたらアメリカ政府に認められる研究者
になってしまっていたような人間です(詳しくは連載ストーリー参照)。
いつの間にか博士号を取得した後に、気づけばメンターの一人にもなったドクター・メンターからの強い要請で三年間彼の元で博士研究員なる時間を過ごし、
十年たった後に、アメリカ政府に認められる一人前の研究者となったわけですが、ドクター・メンターからすればこれは思ってもみなかった快挙であったと思います。
それというのも、博士研究員は実はある医学大学でのポジションであり、お医者さんでもアメリカで育ったわけでもない私オトメは当初精神科とか産婦人科とか自分の研究に大きく関係する英単語すら発音・スペリングできなかったんです💦。
仕方ないとはいえ、ドクター・メンターもかなり頭を抱え「これは先が長いぞ」と覚悟を決められていたことと思います。
従って十年というのは長いようでいて、私オトメのスタートラインを考えればかなりのスピード成長を遂げたことになります。
そんな感じの「デキない博士研究員」であった私が年に一回の研究発表会の練習をドクター・メンターの前でやらされていた時のことです。
普通のアメリカ人の博士研究員でさえ著名な研究者達を前に自分の研究発表をしなくてはいけない、しかも自分のメンターがじーっと睨んでいる中いい加減な発言は出来ない、とびくびく怯えるような場面ですから、
このオトメときたらそれは大変な騒ぎでした。前夜は全く寝れなかったと思います。しかもドクター・メンターは多忙な人でしたから、プレゼンの練習を前日にチェックしたりするわけです。
その時に彼が再三私および他の学生に申していたことが
「あのね、研究発表と言えどもただブツブツ一つ一つのスライドの内容を発言したって意味はないわけよ、観客に向かって話をしているわけだから物語を語ってほしいんだよね。」
ということです。その当時は
「んな余裕ねえよ。こっちは緊張してガチガチなんだよ。(心の声)」
なんて思っていましたが、今から考えるとどんな分野においてもプレゼンをするときというのは同じような心構えが求められるんだなあ、とそんなことを思い出した瞬間でした。
バイデン大統領と私オトメの不思議な縁
デラウェア大学のバイデン氏の演説で彼と初めてご対面したわけですが、実は私オトメとバイデン氏というのは不思議な縁でつながれていたりするのです。
実はバイデン氏とは遠い中近東の国、ヨルダンにあるペトラという世界遺産の一つでもある場所で生まれて初めて急接近した人でもあるんですよ。
まだ私オトメが博士研究員であったときのことですが、博士号を取得した大学院が当時なんとヨルダンにある大学の看護科と契約を結び、私オトメの専門とする学問をオンラインと直接教示のハイブリッドで教えていくという試みをしていました。
結局アメリカ人ならではの、中近東に対する敬意のなさおよび横柄さにヨルダンの教授陣がうんざりして今ではその契約は破棄となったと思うのですが、
教師を探しているということで卒業生でもある私に白羽の矢が立ったわけです。
中近東なんてニュースでしか見ない完全異次元な世界、過激な宗教集団とアメリカ軍が常に戦っているようなイメージしかなかったので、誘いを受けた時には
「わーお」
という心の声が最も適切かと思われるくらい、なんて反応してよいかわからない、というのが正直な気持ちでした。
まあそれでもとにかく好奇心が旺盛であり、つまらん人生よりは面白い人生のほうがいい、というのが私オトメのモットーでもあるので「よっしゃ~」てな感じで二つ返事で引き受けたわけですね。
この時の体験はこれはこれで非常に面白いものでもあるので、またいつか他の機会にまたコラム記事として書きたいと思います。
このハイブリッド形式というのはコロナ禍以降世の中の大学教育の標準となってしまいましたが、まだ2010年当時はかなり新しい試みだったといえます。
ハイブリッドなので数か月のクラスの間ほぼオンラインとかメイル機能を使って宿題をチェックしたりするわけなんですが、その間に一週間だけ直接教示をしにヨルダンに旅立ちました。
この一週間はかなり豊かで実りの多い時間となったのですが、一週間の最後の日に世界遺産でもあるペトラという遺跡を訪ねに行ったのです。
ペトラというのはギリシャ語で崖という意味らしいですが、世界七不思議の一つでもあるこの遺跡の面白いところは、紀元前一世紀ごろという、二千年以上前の時代にナバテア人の首都として栄えた町だそうです。
実は崖に彫刻を刻むようにしてつくられたこの町はまだ全体の15%くらいしか発掘されていないようで、現在においてもまだ発掘中なんだそうです。
ローマ風の建物は1812年に東洋学者のブルクハルト氏の探検中に、突如伝説の遺跡としてペトラの宝物殿が彼の目の前に現れたとされています。
どうやってこの高地にこれだけの街を創り上げたのか、今でも不思議一杯の遺跡なんだそうです。
この遺跡を訪ねている最中に、オトメは極度の脱水状態に陥り、半分気を失いかけながらゆっくりゆっくりと遺跡の町を練り歩いて行ったのを覚えています。
もう十年以上も前の話となることもあり、細かい部分は覚えていませんが、確か上の写真にもある通りラクダにも乗せてもらった記憶がうっすらとあります。
でも一番覚えているのは脱水症状であることが理解できずに、どうしてこんなに苦しい思いをしているのか、歩くのが辛いのか、混乱状態の中大きな不安を抱えながら遺跡を訪れていたことですね💦。
もちろん運転手と付き添いの女学生がいたのですが、彼女はもちろん私に何が起きているかなんて全く分かりませんから、私を元気づけようとそして無理やりにでも歩かせようと彼女もきっと大変だったと思います。
それでも何とか遺跡の中をめぐり終えてやっと門の外に出てホッとしたときです。
突然遺跡を訪れている全員の観光客を追い出すかのように、遺跡のスタッフが出口に観客を焦って誘導し始めたのです。
私たちはかなり出口に近いところまで来ていたので、しかも私の状態がかなりひどかったので、何も文句も言わずに出口へと向かいましたが、まだ訪れたばかりの環境客などはきっと頭に来ていたと思います。
わざわざ遠いところまできてやっと世界遺跡を見れたと思ったら追い出されるわけですから。
しかし、ここはアメリカの常識では計り知れないようなことが日常的に起こる中近東区域ですから、そんなことを言われては逆にテロでも起きたのかと焦って立ち去ろうとするでしょうね。
そして、ある程度人が引けたと思ったら突然上空で
ぼぼぼぼぼぼっっっっっ
ってな感じの音が聞こえ始め、見上げれば数機のヘリコプターがペトラ遺跡に向かっているではありませんか。
「おお~、なんだなんだ?」
と周りの様子を伺ってみると、どうもその日に当時副大統領でもあったバイデン氏が遺跡を訪れていたらしいのです!
その時は「へー、あの副大統領のバイデンかー。同じアメリカ東海岸にいるのに、こんなところで落ち合うとは何ともスゴイ偶然。」なんて面白がっておりました。
ところが、その後2015年より数年デラウェア州で研究活動をしていたわけですが、後に研究職にもつながった2015年にデラウェア州の大病院で行われた研究関係のミーティングにおいて
H先生「実は今日は大変な日でして、バイデン副大統領の息子さんであるボウが脳腫瘍によりこの病院内で今朝亡くなりました。」
オトメ「え?!…そうだったんですね。お悔やみ申し上げます。お若くして亡くなられて残念でしたね。」
なんて会話をしたのを覚えています。
なんてバイデン氏にとっては大変な日に息子さんが亡くなられたその日にその病院で私オトメは面接を受けていたわけですね。
そして2015年よりデラウェア州で研究活動をはじめ、例のデラウェア大学で行われたバイデン氏による演説に見事出くわし、生まれて初めてバイデン氏とご対面を果たしたわけです。
そしてバイデン氏はその後トランプ氏との大統領選挙で見事大統領として当選し現在に至るわけですが、この内閣においてもアメリカ史上初の有色人種でもある女性副大統領と共にパートナーシップを組んでいる彼を見ていると
どうしても他人事とは思えない
私オトメとの深い縁を実感しながら、アメリカ国内、および世界情勢に向けてこれまでにない程の関心を向け始めたのです。
こういった経験を通じて、自分個人という枠を超えて、自分はアメリカ社会、世界情勢の一部を担っているのだという実感がわくようになりましたね。
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