こんにちは。
オトメと申します。☺
今このページに辿り着いているあなたへ、貴重なお時間を割いていただき大変感謝しております。
プロフィールを読まれた方でもそうでない方でも、きっとこのサイトの何かにご興味を持たれてお越しくださったのだと信じております。
このページは、ここ最近の数年のオトメのフロンティア人生を連載ストーリー化した第十二話が掲載されています。
第十一話にて、オトメが一体どんなふうにして日本男性達と出会いと付き合い、そして気づきへと至ったか、ということについてお話ししました。
このころのオトメはにてお話しした通り、孤高の人へと昇りつめてしまい(詳しくは第八話―第九話参照)、その状態から逃げ出そうとしては失敗していた状態でしたので、精神的にはかなり参っておりました。
つかの間の華やかなオンライン上での一般日本男性達との交流は、そんな私を嬉々とさせてくれたのですが、それでも彼らの現実の状態が見えてくるにつれ、
また元の木阿弥(もくあみ)の精神状態に戻っていった、というのが正直なところでしょうか。
私の場合に限って言えば、結局は出会い系サイトにおいて、本当の意味で関係構築に興味のある人との出会いには恵まれなかったようですね。
この第十二話においては、これまでの人間関係で得た体験を通しての私オトメなりの愛についての考察を述べていきたいと思います。
日本男性達との交流における共通点
ここまでの日本男性達の交流において(詳しくは第九話ー第十一話参照)、一つ共通点があることに気が付きました。
それは、彼らは総じて私との関係に求めるものが非常に具体的であったということです。
それは性的な関係であったり、
精神的な全容だったり、
なんらかの研究やビジネスの共同作業だったり、です。
一方で、私オトメはというと、初期の出会いで経験する喜びと興奮状態を過ぎると、
もちろんいろいろなパートナーシップにおいて望ましい形というのは、相手が関係に望む内容に沿ってそれぞれ想像できたのですが、
別にその相手でなければダメ
ということはありませんでした。
そしてそれは相手においても然(しか)り、だったわけです。
要するに、自分の望みさえかなえられれば、相手は別に私でなくてもいいんですよね。
つまり、私という存在はあくまで相手の自己満足・自己実現にとって大事な存在であるにすぎないわけです。
そんなこと、ほとんどの人間関係において当たり前の前提じゃないか、とあなたは思われるかもしれませんね。しかし、これだけ時差があって距離のある関係においては、
この人でないと!
という相手の持つ特有の背景や現状に対して唯一無二的に感じるものがないと、関係を続けて発展させていくための体力および気力が持ちませんし、
また長年日本を離れているせいもあってか、日本とアメリカ文化の狭間にある状態において、やはり私オトメの感覚や考え方というのは日本にずっといる人たちと全く同じ、ということはないでしょうから、
お互いに知り合っていく過程において、相当な忍耐力をもって、気長でおおらかな気持ちで接していく覚悟がお互いにないと、お互いの相違がストレスになって関係は簡単に破綻(はたん)するのだと思います。
つまり、それだけの価値を相手そのものに感じていないとおそらく関係は長くは続かないということになりますね。
因みに、長らくアメリカにいるからといって、必ずしも文化の狭間で育つ特有の感覚や考え方が自然に身についてくるわけではないようです。
これは私オトメがアメリカに長年在住する多くの日本人の方たちと交流して体感したことです。
私オトメはおそらくアメリカに在住する日本人の中では生々しいアメリカ社会にほぼ裸一貫で相当どっぷりと深入りしていった方だと思いますが、
実は多くのアメリカ在住の日本の方たちというのは、アメリカに長くいればいるほど同じくアメリカ在住の日本人の人たちと仲良くなっていく傾向にあるようです。
やはり育った文化背景や言語が、アメリカに長くいればいるほど懐かしくなってくるんですよね。
私オトメももちろんそうなりましたからその気持ちはよくわかります。
女性の場合においては、今まで見てきた中で大方の場合、
アメリカでアメリカ人と結婚して専業主婦になる
または、高学歴の女性の場合は、
アメリカでアメリカ人と結婚して仕事をするようになるか、同じく高学歴の日本人の旦那さんと渡米して仕事をする、
という二つのパターンに分かれます。
しかしながら、どちらにせよ、自分の手で自分の道を切り開いていき、キャリアをそして人生を自分の力にだけ頼って築き上げていく、というタイプの日本女性には未だ一人も出会ったことはありません(詳しくは第一話参照)。
ただ私の場合はキャリアの内容的にまたかなり偶然的にアメリカ社会の生々しい現状に踏み込んでいってしまった、
というかそうするしか自分で道を切り開いていくにあたって
他に妥当な選択肢がなかった
というほうが正しい表現だとは思いますが💦。
そうなると、当然アメリカに来てから培われた感覚や考え方というのはおそらく日本にずっといらっしゃる方たちとはかなり異なっているのではないか、と想像できます。
そして相手と自分との相違というのは関係の初期においては新鮮でしかなかったのが、だんだん慣れてきて気を許してくるようになると、むしろ混乱、不安、いら立ち、または恐怖などの否定的な感情の元ともなってしまうようです。
なにしろ、相手は自分とは違う、すなわち自分の望む自己実現の妨げとなってしまうわけですから!
したがってその時点において相手に対しておおらかで寛容な気持ちと態度を持ち続けるには、
その相手に何か特別な価値を見ていることが必要
になるのも無理はありませんね。
私は一体誰を求めているのか
ここで私オトメが初めて気が付いたのは、
出会った相手、惹かれた相手を前にして、どんな関係を望むかはイメージできたが、
そもそも自分自身がどんな相手と出会いたいか、については自分でもよくわかっていなかった、という事実です。
もちろん自分が惹かれる相手、と定義してしまえばそれまでですが、そうすると意識高い系君の時のような落とし穴も待ち受けている可能性があるわけです(詳しくは第十一話参照)。
そしてさらに、今まで言葉も通じない外国にて自分の道を切り開いてきた人間が、どうしてこんな重要なことについては最後の最後まで自分の中ではっきりしていなかったのか、
についての理由も最近になってわかってきました。
それは
心からの自分に対する諦め
です。
ありとあらゆる世界、人間、文化、活動に興味のあった私オトメはとにかく大学一年生の夏より、一分一秒も無駄に出来ないという理由もない焦りから、
新たな世界、人間、活動に関わる機会があるたびに後先考えずに飛び込んでいきました。
そして自分の中でバランスを取るためなのか、
美しい世界を堪能したかと思えば、醜い世界に首を突っ込む、
または具体的で現実的な世界で学習したかと思えば、実態のないような世界(スピリチュアル系とか)について学ぶ、
などと常に両極端の世界に首を突っ込んでは行ったり来たりしていたのです。
確かにそうしていくことによって、おそらく誰にも真似できないくらいとてつもなく幅広い視野を持つ人間へと成長していったと思いますが、同時にどちらかの世界で通じる話は他の世界に属する人間とは共有できない、という状態、
つまり、まさに大学時代から孤高の状態を実は自分から徐々に作り上げていっていたのだと思われます。
これはもしかしたら、日米を行き来し、未だに日米の文化の狭間で理解に苦しむ母親に育てられたからかもしれませんし、
映画「タイタニック」並みに身分の異なる家系出身の父親と母親に育てられたからかもしれません。
いずれにしろ、世代を超えて両極端の部分を自分の中で保ち続けることで、自分という存在を確認し続けてきたのかもしれません。
自分の親または祖父母世代からの人生を受け継いで、自分という存在を能動的に確認し続けているうちに(詳しくはホームページ参照)、
カオス理論ではないですが、その人生自体に命が宿り、加速し、さらに広がりを見せ、
まさに導かれるようにして半場自分のコントロールの利かない次元において、アメリカでの人生が勝手に展開していったようにも思われます。
したがって、人生の今この時点においては、自分という存在が
自分の人生によって勝手に創られていっている
状態だといっても過言ではないといえるのではないでしょうか。
そういった自分はどこの誰とも迎合することはしたくてももう出来なくなってしまうわけですし、
自分を形作るそれぞれの世界に在住する人間とそれぞれの多岐にわたる活動をしていく、という自分を世界の中核に常においた状態にならざるを得ないわけです。
英語では Center of the Universe なんて表現をしたりもしますね。自己中心的な人間に対して嫌味っぽく使う時もあれば、スピリチュアルな意味合いを含めて、自分を中心に世界を創り上げていくなんていう神秘的な使い方もします。
ということは、もうこの時点で自分が創り上げた孤高の状態を今更抜け出そうと思っても後の祭りなわけです。
したがって、ほとんど無意識のレベルにおいて、
私みたいな人間と出会えるわけがない
という諦めの気持ちを持ち続けていたのだと思われます。
というか、「そもそも別に孤高の人のままで全然よくない?」とあなたは思われるかもしれませんね。
今から振り返って考えてみると、唯一無二の個性を持っている、つまり孤高の人である、という自覚が生まれてくるにつれ、
今までとはまた違う種類の不安が生まれてきたのだと思います。
これまでは、「自分はこの広々とした世界においてどういう位置づけにあるんだろう」という種類の不安に突き動かされて生きてきました。
しかし、いったん自分の唯一無二の個性が実感されると、今度はこの個性はこの世界において誰と響きあうのだろうか、どこでどのように輝くことが出来るのだろうか、という
世界から周りから精神的に取り残された孤独感
という種類の不安に苛(さいな)まれるようになったのです。
嵐の吹き荒れる荒野の中、たった一人裸足でぼろ衣をまとい、おぼつかない頼りない足取りでよろよろと歩き回り、両手で自分の体を抱きしめ、ぶるぶると震えているような、そんな精神状態にあったと思います。
自分の個性と響きあう相手と出会わなければ、自分が自分らしくいることで常に周りにとって迷惑になる、危害を加える、そして嫌われ、人は自分から離れていくという恐怖におびえることになります。
そして、自分の個性が輝く場所や機会のない世界においては、自分という人間は狂気の沙汰、ゲテモノ扱いされてもおかしくはないわけです。
事実、歴史を見ても、時代に受け入れられなくとも自分の内なる個性を表現しつけた人たちは精神病扱いされたり、挙句の果てには野垂れ死にしたりしているわけです。
それでは自分を抑えて生きて行けばよい、と普通ならば考えるところですが、ここまで自分の世界を個性を追求してしまった挙句、自分らしさを半殺し状態で生きることを自分に強いるならば、一体何のために生きてきたのか、それこそこれからの生きる希望と気力自体がなくなってしまうわけです。
つまり、言い換えれば
孤独感=現実でまだ花開いていない個性
はたまた、
空・無の状態、創造の可能性、未知…
いわゆるフワフワした根無し草状態の宇宙
ということなのではないでしょうか。
従って、孤独感に苛(さいな)まれる、という背景には、現実に存在する誰かと響きあうことで、これまで築き上げてきた自分の個性を形にしてみたい、
「でもそんな相手が見つからなかったらどうしよう
形にできる場所が、機会が現実になかったらどうしよう」
きっと新しく自分の中に沸いた不安というのは言葉にするとこんな感じだったのではないでしょうか。
となると、自分が誰を一体求めているのかも、自(おの)ずとはっきりしてくるわけで、要するに
自分の個性と響きあう相手
ということになりますよね。
そして身も心も焦がす愛…当然心身ともに響きあう鏡となる相手、おそらく異性の男性を求めてしまうわけです。
ということはつまり、
自分と同じように独創的な人生を歩んでいる男性
ということになるようです。
従って、この時点で言えることは、
そんな自分みたいな男性になんて会えるはずがない
という諦めの気持ちが心の奥深くに長い間眠っていたのだと言えますね。
まあ…この20年間私のような外国人女性、または日本女性に出会ったことはないですから、自分は相当珍しい存在であることはおそらく間違いないです。
じゃあ私の今までの全ての自分が目をキラキラさせて喜ぶような、「珍しい」男性なんてこの世の中にいるんだろうか…と同時に半分くらい絶望的な気持ちになるのも致し方ないですよね。
またそんな男性がいたとして、一体どんな男性なんだろうか、なんて想像もできないわけです。
自分は周りの人間と同じくらい価値がある
これは母親および父親両方からの影響だと今では実感できますが、
母親が日米の文化の間においてどちらの社会にも受け入れられなかったという体験から、どこかで常に自分の存在に対して罪悪感を感じており、
父親もまた、弱い自分を守るために自分の妻や娘に対してですら完全にガードを固めてきたわけですから、つねに「加害者」を勝手に演じさせられてきた私の中での
自分の存在に対する罪悪感
というのはとてつもないレベルのものであったと察します。
あまりに自分に対する罪悪感が強いと、今度はそれを自覚してやる代わりに、周りを攻撃したり、周りに対してガードを異常に固くしたりするようになるのです。
つまり、
悪いのは自分じゃなくて周りの人間
という他力本願的な被害者妄想の虜(とりこ)になってしまうわけです。
ということは、父親自身もまた強い罪悪感を感じている一人ということになりますね。実際に彼は私によく
「貢献できる何かを持つ人間は社会に貢献するという義務がある」
と言っていましたから、これは裏を返せば貢献しないやつはまたは貢献できないやつにはそれ相当の価値がないといっているようなものですよね。
彼にとって人間の価値というのは、ひとりひとりの存在そのものよりも、社会的な付加価値の度合いによって決まるものだったようです。
この罪悪感にまみれた二人によって第一子として育てられた私もまた同じ穴のムジナ状態であり、大学時代に気功を学んでいた時に生まれてはじめて
「え、親の言うことって聞かなくてもいいの?」
とビックリ仰天したくらいに、私と両親は一心同体状態であったと思います。
そして、そういった自分にとって当たり前であった常識が徐々にいろいろな人たちとの出会いによって覆されていき、それでもかなり世間知らずの状態ながら2000年に渡米するに至ったのだと思います。
しかしそれでも長ーい間、社会的な付加価値がない人間に価値はない、また自分が相手にとって役に立たない状態においてはいずれ相手に捨てられる、という
自分に対する罪悪感に基づいた焦りと恐怖
によって突き動かされてきたのだと思います。
別に社会的な付加価値を訴求(そきゅう)したり、大事に思っている相手にとって役に立とうとすること自体は全く悪いことではないし、素晴らしい言動だとは今でも思いますが、
別にそうしたからしないからという話と
自分という存在自体における価値という話は
まったくもって別
なわけです。
ここの部分を自分の中で長い間、癒着(ゆちゃく)、ごっちゃまぜにさせていただけに、
自分を自分の人生における労働者
として自分の持ち合わせているだけのすべての気力と生命力を枯渇(こかつ)させていってしまったというわけなんですね。
そして、なんとなく自分の心の奥底には、理由はわからないが、自分という存在に対して罪悪感というものを感じているとは気力体力の衰えとともに徐々に自覚していったのですが、
それでもまだ当時よく会話をしていた父親には
「おまえが~?罪悪感!?それとは最も程遠いような存在のお前が~?」とかいって
大笑いされてしまっていました。
まあ、このコメントを見ると大体彼の中で私に対する真の理解には程遠い状態であったことはお察し出来ますよね^^;。
彼の思った現実が彼にとっての真実
そしてそれは相手とのナマの会話においても変化していくことはない
相手の言葉をそのままそのとおりに受け止め、自分はそうは思わないが、相手には相手の感ずるところがあるのだろう、と想像し会話を共に創造していけば、こういうちぐはぐな会話でおわることにはならなかったでしょう。
そっと心のどこかで感じ続けていた自分に対する罪悪感はあったのですが、だからそれをどうしたらいい、とか導いてくれる相手がいるわけでもないので、わかる由もなく、
自分の個性に対する自信を失い、それとともに徐々に気力と体力が衰え、生きる気力自体に枯渇(こかつ)するに至ってしまったわけです。
そして、自分の気力が落ちていくのとともに、なぜだか交流を持つ相手に対して自分の全人生すべてを捧げようとしてみたり、それでいて相手からはまるで同じ熱量で交流が成り立っていない(詳しくは第十一話参照)、
とまるで自分に対する罪悪感もそこから生まれてくる交流の質も悪化の一途をたどっていたようでした。
しかし、同時に過去20年間にわたって思いっきり個性的な人生をアメリカで歩んできたという自分というのもれっきとして存在するわけで。
その過去の事実は意識高い系君との関係でかなり参っていた自分(詳しくは第十一話参照)の周りの人たちからの賞賛や励ましの言葉となって、
徐々にですが、自分を犠牲にしてまで相手や周りが得をしたり喜んだりするために尽くさなくてもよいのだ、と自分を大事にする気持ちが芽生えていくようになりました。
要するに、何が起きていたかというと、これまで相手や周りが得をしたり喜んだり認めたりしないことにはこの世における自分の価値というものは存在しない、という刷り込まれてきた価値観を維持するエネルギーがもう自分には残っておらず、
その代わりに、本当の意味での自己防衛、というか自分のトーンダウンした生命力を守る姿勢が出てきたのだと思います。
インターネットを介しての出会い、また2020年の夏に六週間日本を訪れたときの出会いなどを通じて、気がつくと自分の周りには、自分が不安や罪悪感を感じたり、それに突き動かされてむやみやたらに自己犠牲を働くような相手、というのは徐々にいなくなっていき、
今度は逆に、新しいタイプの人たちに囲まれていくようになりました。
これは日本人および日本人以外の両方において言えることで、一言で言ってしまえば、
私という人間自体に大きな可能性と価値を感じてくれる人たち
です。
どの方達もお会いしたばかりのときには珍しがってくれたり、これまでの生き様に深く興味を示してくださったり、激励してくださったり、ということはもちろんお互いにあるわけですが、
上記したように、繋がりを継続するにあたって多くの場合無理が生じるようになったわけです。
おそらく無理が生じるのは、私が常に相手に自分の価値を言動で証明せねばならず、それが滞ると関係が悪化する、相手の信用を失う、という不健全な交流パターンがあったと思います。
自分ばかりが能動的に相手に働きかけねば関係が成り立たず、ほとんどの場合相手は受け身の態勢でいることが多かったと思います。
しかし、相手が自分の存在自体に価値を実感してくれている場合、
相手も自分も一緒になって関係を築き続ける
という相互からの能動的な姿勢があるので、バランスがとれた状態で、お互いが自己責任のもとで関わり合う、というもっと健全な関係が成り立つようです。
そうすると、相手ともっと肩の力を抜いた対等な立場において交流が成り立つので、
自分の存在や時間は相手のそれと同じくらい価値があるのだ
と自然と腑に落ちるようになり、面白いことに、あれだけ孤高の状態であることから逃れようとしていたにもかかわらず、生まれて初めてと言ってもいいほど
「私は別に孤高の人でもいいや
というか、むしろ孤高の人であるほうが楽でいい」
と心から思えるようになってきたのです。
自分という中々いないタイプの珍しい日本女性の存在を、やっと自分自身が生まれてはじめて
「アリ」でしょ
と受け入れ、その存在が無理のないありのままの状態でいることを許してやる、その存在自体の価値を心から認めた瞬間だったと思います。
結局自分みたいな日本男性って?
さて、やっと自分の存在価値というものが自分の中で腑に落ちて以来、随分と気持ちのいい人間関係が築けるようにはなってきました。
そういった気持ちの良いエネルギーバランスの取れた人間関係においては、相手の自分にとっての存在価値のみならず、自分もまた相手にとって同じく価値のある存在であることを自覚することが出来、
相手との関係において自信がわいてくる
のです。
つまり、自分を信じ、相手を信ずる、まさに相互間に行き交う信頼関係が生まれるわけですね。
そして、新しい自分に対する肯定的な価値観に共鳴してくれる人たちは、男性にしろ女性にしろ、どこか部分的に自分に似た人生背景、体験、価値観、考え方、視点、姿勢を持ち合わせていることが多いようです。
もちろんこれまでに交流した人達とも、共通項があるから出会いがあり仲が深まっていくわけですし、ある意味で共有できる話題があるというのは大前提のような気もしますが、
ここで重要になってくるのは、どんな内容の人生を送っているのか、どんな活動に勤(いそ)しんでいるかよりも、
どれだけ能動的に自分の個性を認め、自分の人生と向かい、独創的な人生を送っているか
つまり
あり方
やり方
における類似点をより実感しています。
あなたは普通じゃないから、と線引されるのではなく、お互いに励ましあえる素晴らしい仲間、という言葉がピッタリの、これまでの私を囲っていた人間達とは根本的に関係のあり方が異なるようですね。
さて、先ほどから何度か申しておりました、
自分が出会ってみたい、自分みたいな独創的な人生を歩む男性
についてですが、
素晴らしい仲間たちのように部分的に自分と似た在り方を持つ人たちが現れるようになっただけでも、感謝感激雨あられなんですが、
先ほど申した通りの「自分と同じような個性的な男性」に何を求めるのか、と聞かれるとそのあたりについては漠然としていてハッキリしていない部分ではありました。
それというのも、自分に一番近い存在は自分自身であって、そうでない相手は自分と似た部分はあったとしても、完全に自分みたい、ということはないわけです。
つまり、自分と気が合う部分、共通する部分、似通った部分を持つ相手とは、それだけ運命的な出会いを感じるわけですが、それと同じくらい
自分とは相違する部分
というのも当然のことながら持ち合わせているわけです。
そういった自分本位の視点で出会いや関係づくりを見ている以上、
自分という範疇にとどまり続け、自分が常に中心であり続ける
という、自分の延長線上の状態が続くことになります。
その状態において特定の相手との親密な関係を創造しようとすると、相手との体と心の距離が近づくにつれ、相手と自分との相違点から
自分にとってむしろ不自然で窮屈だと思える
ことも数多く出てくるようになるでしょう。
自分とは相違する部分を持つ存在が心身ともに常に身近にいたらそう感じるのも不思議はないと思います。
つまり、自分が自分のことを一番よくわかっているわけで、自分ほど自分を喜ばせてやれる人間、幸せにしてやれる人間というのは自分以外、世の中に
一人もいない
のです。
今までにおいて多くの男女関係を自分も経験し、観察してきましたが、ほとんどの場合において当たり前の話ですが、恋愛感情が基となって成り立っているものです。
しかし、自分や相手の感情に訴え、その浮き立つような感情を理由に男女関係に踏み切ると、特に結婚して家庭を築いたりと現実味あふれる状態に突入していくにつれ、多くの意味で男女関係自体は冷めていく場合は割合的には多いようです。
これはやはり上記したとおり、自分ほど自分の感情を満たしてやれる人間というのは世の中に他に一人もいない、という話につながってくるのではないかと考察します。
となると、孤高の状態である自分に満足してしまっている私オトメは、そして自分ほど自分みたいな人間は他にいないとわかっていながら、どうして未だもって
特定のパートナーの存在についてこだわっている
のでしょうか。
そしてさらに、フロンティアでユニークな人生を歩んできた私オトメはじゃあ一体
何をパートナーシップに求めている
のでしょうか。
それでは第十三話において、そんな自分の中での愛への目覚めとともに、どんなふうに自分の人生の方向性について変化がうまれてきたのかお話しますね。
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[…] 第十二話にて、オトメが一体どんなふうにして自分の中での愛に対する目覚めを果たしてきたか、ということについてお話ししました。 […]