第二話:2018年8月8日:アメリカで政府に認められる一人前の研究者へ

こんにちは。

オトメと申します。☺

今このページに辿り着いているあなたへ、貴重なお時間を割いていただき大変感謝しております。

プロフィールを読まれた方でもそうでない方でも、きっとこのサイトの何かにご興味を持たれてお越しくださったのだと信じております。

このページは、ここ最近の数年のオトメのフロンティア人生を連載ストーリー化した第二話が掲載されています。

第一話にて、アメリカン・ドリームの実現とはまさに良くも悪くもすべてが自由なアメリカ社会において、自由を手に入れ完全なる自己責任のもと、自分らしい人生を具現化していくことだ、とお話ししました。

ここではもう少し具体的にその様子を描いてみようと思います。

あらすじ:まず、私オトメが出会った個性豊かなアメリカ大学院の教授達、危うく自分の大学院人生をオジャンにされそうになったり、また救われたりなんてお話から始めたいと思います。
その後、研究者として無事独り立ちできたのですが、実はそこからが人生の本番。自分で自分のみを守るしかない厳しい現実にぶち当たってオロオロしてしまいます。
なんとか家族でホームレスになる直前の危機一髪というところで、無事転職することが決まったものの、依然として厳しい研究人生の現実を突きつけられます。
ところが最後、まるで天から手を差し伸べられたかのように、いきなり億単位の国家研究費が自分のもとに授かることに!それでは第二話をどうぞお楽しみください!

 

人の人生を食い物にする教授と守る教授

プロフィールにも略歴を載せましたが、生物心理系の学問を遂行しながらも、その裏で同時にアメリカ社会に深く入り込んでいき、

危うく精神異常者の手によって世の中から抹消させられそうになり、もがき、底辺からなんとか這い上がり、ほぼ裸一貫で、山あり谷ありでしたが、一応まともな社会人として今日まで生き延びるに至りました。

 

一人前の独立した社会人としてやっと自分もアメリカ社会で胸を張って生きていかれると思いきや、世の中は、いえ、アメリカ社会はやはりそんなに甘くはなかったのです。

 

よくよく周りを見れば、アメリカ社会で活躍している日本人または外国人といえども、ほとんどの場合は組織の一部として活躍していたり、

己の文化圏内にとどまった活動をしていたり、エリート路線をたどっておられる方だったり、とある程度守られている環境にいらっしゃる方たちばかり。

もちろん自分も学生または博士研究員(ポストドク)であったころは学問上の面倒を見てくれる人などいましたが、それでもそこまで彼らに深く関与していませんでしたし、

 

特に研究系で社会人になった途端、個人事業主的な立場で研究のキャリアを

 

ほとんど自馬力にて

 

築き上げなくてはならなかったのです。

 

一応アドバイザーとなる教授や、所属する研究ラボなどが存在していた大学院時代ですらも、まず性格的にアドバイザーとなった教授に気に入られることがありませんでした。

 

むしろなぜか煙たがられる、またはそもそも自分の可能性すら認めてもらえない、という状態でした。

 

それというのも、性格的に自分が心から面白い、素晴らしい、と思えるものでないとその対象に心からハマっていくことができない、ということが原因にあると思います。

 

言ってしまえば、

 

ワガママと言いますか、一種の怠け者

 

ともいえますね(笑)。

 

だからこれぞ!と思える内容でない場合、どうしても全身全霊でどっぷりと浸かることが出来ず、それは相手から見ても明らかであり、結果煙たがられることになるのでしょう。

教授陣だって自分のキャリアを伸ばし続けないといけないわけで、それに貢献しない生徒は煙たい存在なわけです。

 

一人、修士課程時代によく面倒を見てくれた、就任してまもない30代前半白人の男性教授がいまして(ここでは仮に非情先生と呼ばせていただきます)、

彼のスマートな思考にいたく感心し、彼の研究ラボでヒトの認知研究のお手伝いをさせていただいたものです。

しかし残念ながら非情先生はどちらかといえば私のキャリア成長などどうでもよく、如何に己の承認欲求を満たすため、真面目にタダ働きをする私を手元に残し利用しまくるか、しか頭にないようでした。

次世代を育てるはずの立場である人間が、育てるどころか自分の都合のいいように利用し、あとはどうなっても構わない。

 

まさに、非情そのもの。ええ、何せ非情先生ですから。

 

ちょうどそのころ、同時進行で揉めていた博士号を所有する狡猾な精神異常者からの働きかけも手伝って、その非情先生から、

苦労して入った他の大学院の博士課程への入学を一年見合わせて、「もう一年ここで浪人として頑張ってみれば?」などと根拠の全く無いアドバイスを言い始めたのです。

今から考えれば、何を馬鹿なこと言ってるんだ、といえますが、当時世間知らずでお人好しだった私は、せっかく一年も掛けて準備をしてやっと手に入れた入学権利をあやうく放棄しかけたものです。

 

当時在籍していた大学院にて受験入学委員会の会長を努めていたある若手白人男性に一応相談してみたところ、その教授(仮に聖人先生としましょう)から厳しく

 

「何やってんだよ、そんな素晴らしい博士課程(たまたま彼が以前在籍していた大学院だったのです)に入学しておいて、放棄するだと?さっさと目覚まして引っ越しの準備でもしろよ。」

 

と、いさめられ、はっと我に返って慌てて無事に博士課程に入学を果たすことが出来ました。

 

今でも何でそんな当たり前のことが言われるまでわからなかったのだろう、ってあなたならきっと思っていらっしゃることでしょう。

我ながら不思議なんですが、これってどこかで自分に与えられたチャンスや選択肢に潜む価値や可能性をちゃんと信じ切れていないってことなんじゃないかと思います。

実際その後何度も、自分の意に反する人生の選択をし、そして納得いかずにその道に進んでみると実はその選択肢が自分には最も適していた、なんていう経験をこれでもか、というほどしたので、

自分に適した人生の選択がわからない、という時点で、自分の個性や価値が何なのか、全くわかっていなかった、ということの現れといえるでしょう。

従ってその当時も、今から考えればただのお馬鹿なんですが、何となく聖人先生に話に行ってみよう、という唯一の正しい決断をした以外は、

「うーん、そうか、一年浪人っていう手もあるのかあ。どうしようかなあ。その方がいいのかなあ。」なんてとても真剣に頭を悩ませながら、

病院のようにだだっ広く、あまり人通りの多くない、掃除したてで下手したら滑ってころんでしまいそうなほどつるつるの大学院の建物の廊下をぼんやりと考えを巡らせながらトボトボ歩いていたのを覚えています。

大学院入学時のあまりの第一印象の悪さ、それに加えて精神異常者の手筈により、ありとあらゆる人間から敬遠されていたため、思えば私オトメは修士課程にいた頃はいつもそんなふうに半分白昼夢状態で下手したら滑ってすってんころりんしそうなつるつるの廊下をフラフラしながら歩いていたんですよね。

 

なにはともあれ、さすがアメリカ社会、人の人生を自分の成功の道具としかみていない教授と直感的に迷える子羊状態にある学生を誠実でありながら厳しい一言で目覚めさせる愛に満ち溢れた教授。

こんな対照的な二人が同席する大学院の同学部は、まさに

 

ありとあらゆる人種・考え・人格を受け入れるアメリカ社会の縮図

 

ともいえますね。

 

今や20年以上も経って今度は当時のこういった教授たちに近い年齢になってから思うんですが、こういった生徒からの相談によって、ある程度どの教授はどんな人間性を持っているかってわかってしまいますよね。

日本だったらやはり全体的な学部とか学風の雰囲気とか傾向とかあって、それに合わない人間はとても居づらい思いをするってわりとよくある話だとは思うんですが、

アメリカってたとえ同じ空気を吸っている人間がどんなひどいことを裏でやっているかわかっていても、自分には無関係だと特に存在を気にもかけないんですよね。

もちろん自分に助けを求めてきた場合には、自分のベストを尽くして相談に乗るとは思うのですが…

アメリカっていう国は徹底した資本主義のもと、個人のありとあらゆる所有権というものを徹底的に守るようです。

所有権といっても、物質的なものばかりではなく、知的財産とか、己の誇り(いわゆる自尊心)とかそういったもの含めて全てに関する個人の所有権のことを指すんです。

加えて、アメリカはイノベーション、開拓の国ですから、科学の世界一つとっても、ありとあらゆる分野とか法則とかを証拠とか数学的な考え方を駆使して日常的に発明、発達させていく様子は圧巻です。

 

要するに、よくも悪くも

 

自分さえよけりゃあとはどうでも良い

 

っていう態度が徹底しているんですよね~。

ここで一言、英語風にこの志を表現するとすれば…

 

Who Cares?

 

って感じでしょうかねえ?

 

まあ、そんなこんなで私オトメが在籍していた大学院の学部内においても、ひとりひとり良くも悪くも己のスタイルを貫き通す、なんとも個性あふれるバラエティに富んだ教授陣でした。

私の背中を押してくれたその聖人先生はその後も学会で会えば、元気にしてるかと声をかけていただきました。

随分あとになってその分野の代表理事を務められるようになったときも日本に出張したとかで、

 

聖人先生のあの一言がなかったら、当時の私はアメリカ社会から抹殺(まっさつ)されていたであろう

 

そんな思いから、わざわざ人づてに手紙を渡してもらったのですが、丁寧なメイルでお返事をいただくことができました。

これは浮き沈みの激しい20年間を象徴するようなひとつの出来事でしたが、こんな感じであやうく自分のキャリアさえもメチャクチャな人生模様の犠牲になりかけながら、なんとかかんとか40代まで生き延びてきたわけです。

 

研究者として独り立ちしたあとの厳しい現実にオロオロ

研究職に就いてから独り立ちし、年配の研究者の方たちに叱咤激励およびパワハラを受けながらも少しずつ自立した研究者としてのキャリア、独自の研究プログラムの確立に向けて成長していきました。

が、研究職で生計を立てるって実はギャンブルで生計を立てる、くらい不安定で危ういキャリアなんです。

特に国家研究費を稼ぐようなトレーニングを受けている場合、国家研究費を授与される確率は

 

たったの10%!

 

これでは株の売買や短期投資で生計を立てたほうがまだまし、ということになるわけです。

 

案の定、二人目の子供を緊急帝王切開にて出産した瞬間に、

 

自分の給料を全部自分の研究費で稼げ

 

という指令がいきなり出され、それはもう慌てふためいたものです。

 

日本に住む方であれば、想像してみてください。

普通に、大塚製薬等の大手製薬会社に勤めて、白衣を着て、マスクを着用して新薬の開発に没頭しているあなたの背後に、いきなり研究部長から

 

「来月の給料からは、自分で研究したいものを自分で見つけて、その研究のスポンサーになってくれる人も自分で見つけて金稼げ!」

 

なんて言われたとしたらどうします?

これが実際に行われるのが、アメリカの社会なんです。

 

その背景には、当時所属していた研究所で私を雇ってくれた女上司からのパワハラを糾弾(きゅうだん)したおかげで、周りからはただ精神病扱いされるようになっていたことがあげられます。

要するに、白人でもない、英語を外国語として話す女の私に対する風当たりはやはり強く、自分を守ってくれるはずの立場の上司のパワハラを訴えることによって、逆に研究所の中で孤立してしまったのです。

また、パワハラはもちろんアメリカ社会においても問題ですが、要は結果を出していない時点でパワハラだなんだと自分を雇ってくれた上司を訴えるのは頭のおかしい人間のすることなのです。

要は、じゃあお前はどうなんだよ?っていう話です。

ええとここでも英語風に表現してみると、”How about you then?”ってかんじになりますかね。

 

当時まだ正義感に燃えまくっていた私オトメは、自分を雇ってくれた女上司に向かって「あなたのやっていることは倫理的にみても大変問題がある。」なんてメイルで訴えたりしていました。

そんなの周りは百も承知で、しかし私オトメとは違ってもっと賢く立ち回り、自分の身を守るべく対処していただけの話で、だれも自分のクビを握っている相手に真っ向からは向かうなんてドアホなことはしないわけです。

まさに自分の身は自分で守れ、というアメリカ社会特有の処世術なわけです。逆を言えば、自分の身さえ守れればあとはどうでもいいんですよね。だから周りに対しても割とおおらかな態度でいられるわけです。

その女上司は博士研究員のときにお世話になっていたメンター氏(詳しくは第五話参照)の同僚でもあったため、そしてメンター氏が必死に育て上げた後輩をただ搾取してなんとも思わない彼女に対して怒りに震えながら、私はそんな情けない内容のメイルを彼女に打っていました。

それでもメンター氏の存在もあり、それはそれで筋があると見込んでくれていたオバマ政権の元大臣の一人であった、その研究所の設立者に無事拾われ(ここでは仮にドクター・大臣としましょう)彼が引退するまでの短い間カバン持ちをさせていただきました。

 

彼の私への指導はそれはそれは厳しいもので、

 

獅子は我が子を千尋(せんじん)の谷に落とす

※親や師が子供や弟子を育てるときに、トラの母親が可愛い子供のトラちゃんを谷に突き落として這い上がってきた子供だけを育てる、っていうくらい厳しく当たることをこんなふうに表現するみたいです。

 

と言わんばかりに、私のナルシシスト的な甘えた部分を徹底的に指摘し、独自の研究キャリアを築くことを徹底的に主張、決して甘やかすことはしませんでした。

 

というか、むしろカバン持ちをしていない他の同僚たちに対して彼はもっとずっと優しかったと思いますね。

 

ドクター・大臣のカバン持ちをしている間に、二回ほど彼について学会やらその道のトップリーダーが集まる内輪の会議やらに参加させていただきました。

当時の自分は、研究者の道に入ってから、あまりに本格的で高圧的な雰囲気の環境に恐れおののき、自分の発言に全く自信がなくなっていました

きっと過去の多くの人間がそうであったように、当時の私オトメもまたそっとドクター・大臣の陰に隠れるようにしてそんな高圧的な雰囲気の環境におそるおそる参加していたわけです。

しかし、そういった自信のなさというのは簡単に周りに伝わってしまうもので、そんな自分の態度に相応して、ドクター・大臣には特等席を、そして後からのこのこついてきたこの私オトメには外野の席を与えられたりしてしまうわけです。

しかも自分にはその程度の価値しかない、とハナから信じている私オトメはまたそういった席順を何の疑問もなしに受け入れてしまうのです。

堂々と周りに再会を祝され、会議のリーダーの右腕として文字通り右隣りの特等席に座ったドクター・大臣とそんな彼を称賛の目で見ながらおずおずと外野の個人席にそっと座る私オトメ。

まあそんな構図が出来上がっていたところ、ドクター・大臣はここぞとばかりにまだ研究者の卵程度の存在でありおずおずしている私の背中を押して、

 

「俺の陰に隠れてるんじゃない、どんなに脅威を感じる場面においても己にしかできない貢献をするんだ。」

 

とばかりに、少しでも腰が引ければ私を見下し、私に関係する内容が会議に出れば、「お前が話せよ」または「なぜお前は何も言わない?」と発言権を突然私に放り投げるまたは何も言わない私を責め立てる始末でした。

そんなとき、会議に参加している一斉のトップリーダーたちが私が何を言い出すのかと興味深げにそして半分バカにしたように私に注目していたのを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。

 

一度研究会全体の会議が行われたときに、ドクター・大臣にみんなの前で厳しくお叱りを受けたこともあります。

私は良かれと思って、日頃からあまり目立たないでいた、治療の方に携わっていた同い年くらいの女性同僚のスキルの素晴らしさを褒め称える発言をしたところ。。。

「〇〇さんたちは本当によくやってくれていて、彼女たちのような治療技量が治験の患者にとって役に立っているようです。」

といった瞬間、

「何言ってるんだお前は。馬鹿か?こいつらがいくらすごくたって世界は変わらないんだよ。誰が治療するかじゃなくて、誰でも効果を出せる治療方法を俺たち研究者がつくりあげていくんだろう。」

とものすごい勢いで怒鳴られました。

それでもドクター・大臣なりに私をかわいがってくれていたようで、彼からは、「お前は鍛え甲斐があるな、俺はお前のことは心配しておらんが、お前の周りの人間のことがむしろ心配だよ」なんてことをよく言われていました。

 

そこのあなたは、なんでこんな厳しい人に一生懸命オトメさんはついていってるの?

なんて思われたかもしれませんね。

 

ドクター・大臣と初めて面会したときのことですが、それまでの人生において彼一人が

 

私の中に秘める可能性を全面的に手放しで認めてくれた

 

のです。

ちょうど私が彼の創立した研究所に就職した直後に、ドクター・大臣はオバマ政権の内閣から退いて、ホワイト・ハウスから引き払っていらしたところでした。

自分の創立した研究所においてどんな人間たちがいるのか見てみたい、と私達一人ひとりとの面会を要請したのです。

オバマ政権のもとで大臣をやっていらした方と直接二人だけで面会をする、なんて機会はそうそうないですから、ドクター・大臣と面会直前、私オトメは本当に緊張状態にありました。

ところが、実際に彼と面会してみると、スラリとした長身で、険しく威厳のある顔立ちをしながらも、話しているとなんだかとても馴染みやすい人で、自分が研究のこの時点に関して感じていることを彼に対して素直に語れる自分がいたのです。

彼は一言、

「君は想像力が豊かなんだね。これは僕からの最高の褒め言葉だよ。君みたいな人間は何も心配することない。必要なものは全て持ち合わせているからね。」

とおっしゃってくれたのです。

さらにその面会の後、私を後にパワハラで苦しめた女上司に対し、私みたいな人間をこの研究所に雇って本当に正しい選択をした、と彼から直々にお褒めの言葉が届いたそうです。

自分の親でさえもそんなことはなかったので、こんなすごい人に「君にはすべてが揃っている。何も心配しなくて良い。」なんて言われたときには、興奮のあまりその夜は眠れませんでした。

これまでオトメはどこに行ってもだめな人、できない人、変わった人、でしかなかったので、いわゆるみにくいアヒルの子であるのが当然だったのです。

一夜にしてみにくいアヒルから大空に羽ばたく白鳥になったかのような、そんな心境だったと思いますよ。

 

その時から、この人に何を言われようと、この素晴らしいキャリアを持つ心の優しい先輩から出来るだけのことを学び取ろう、と固く決心したまでです。

 

彼からの教えで印象に残ったのは、自分という人間を形成するにあたって大きく関与してきた人間達との歴史を決してないがしろにするな、ということですね。

 

つまり、自分という存在は所詮はこれまでの環境と人間関係の産物でしかない、ということです。

 

ドクター・大臣は有名大学の教授でもありましたが、彼の幅の広い思考にあわず、当時私が一時的に籍をおいていた研究所を設立したわけです。

詳しくは教えてくれませんでしたが、例えばドクター・大臣が在籍していた大学内において研究センターを任されたにもかかわらず、彼が自分のネットワークと信用を駆使して集めた運営資金をなぜか学部長に億単位でだまし取られたとか…

40代にして彼は無一文で大学を飛び出し、最初は収入ゼロの状態から、数人の仲間と共に社会に、コミュニティに還元する、実社会に役に立つ研究所を創立、彼が引退するまで小さいながらもその研究所は存続しました。

小さいながらもその研究所は私たちの分野においては多くの注目をあび続けましたが、ドクター・大臣の社会を改善してこその研究、という言ってみれば科学の当たり前の在り方を本当の意味で理解している人間はいまだもって数少ない少数派なのです。

 

彼のようにフロンティアを行く人間というのは、才能があるからというよりも、「フロンティアを行くしか他に道が残されていないからフロンティアになってしまうのだ」とドクター・大臣はよく自嘲しておられました。

そんな彼に必死について行くので精一杯でしたが、肝心の研究の方ではなかなか成果につながらず、二人目の出産、彼が引退した直後に、厄介払いとばかりに解雇の命令が下されたわけです。

当時まだ結婚していた元夫もなかなか仕事が落ち着かず、一家の大黒柱として母乳育児にも励みつつ、文字通り地の果てまで就職先を探しに行ったものです。

実際に地の果てにある大学から就職のお誘いは受けたのですが(笑)、今現在住んでいる、都会からそう遠くない場所から白人ばかりの廃(すた)れた片田舎に移動する気にはとてもなれず、

 

「一家でホームレスになるかもしれない」

 

という覚悟で絶望的になりながらも、信じられないかもしれませんが、

 

なんとその仕事を断ってしまったのです…

 

自嘲するしかなく、馬鹿だよなあ、と周りにいってほとほと困った直後に、たまたま隣の州の大病院において研究の紹介をしに行った先の医学者たちに気に入られ、

あれよあれよという間に、一か月後には隣の州において新しく作られた研究のポジションに就くことができました。

その報告をして一番に喜んでくれたのは他でもない、カバン持ちをしていたオバマ政権の元大臣であったドクター・大臣でした。

地の果ての大学からのお誘いを断った時、周りは断って大丈夫なのか、と当然のように心配していましたが、ドクター・大臣だけは

 

「よくぞ断った。よく妥協しなかったな。」

 

と彼らしくほめてくれました(笑)。だからでしょう、彼は人一倍この就職を喜んでくれていました。

 

晴れて新たな就職先でもまたもや…

この新しい研究職において、現場での医療を目の当たりに、ありとあらゆる医療に関するモデル事業についてアイディアを得ていきました。

一方で研究者としてのキャリアは伸び悩み、数々の改善にむけての成果もむなしく、やはり国家研究費を思うように獲得できていない、という理由から解雇警告が二人の雇用主それぞれから言い渡されたのです。

研究キャリアが伸び悩んでいるとはいえ、やっと安定した(と思っていた)職業において、自分のやりたい研究内容が固まってきたころに、

またもや先の見えないこれからの自分、絶望感と失業への恐怖と不安から、その宣告を受けた日に帰宅してから家族の前で、赤子のように大声で泣き叫んでいたのを覚えています。

 

当時渡米してから18年ほど経ちますが、心身共にさすがに限界に達しつつありました。

アップダウンがあまりに激しく、そして終わりがないからです。

ええ、ここでも英語風にこの心境を表現するならば、This, never ends…! てな感じでしょうか。

 

これが男性であれば勲章ともなり得るのでしょうが、女性であるためどんどんストレスと心労、過労から白髪になっていく、そして顔もげっそりして目もくぼみ、肌も張りを失ってたるんでいく様子はどう見ても褒められたものではありませんでした。

子供二人を抱え、キャリアも中途半端に築いてきてしまった状態で、しかも年齢的にも今更日本に帰っても初めは生活保護の受給者にでもなるしか道が残されていなかったと思います。

渡米していた殆どの日本人の知り合いは結婚して専業主婦となったか、日本へ帰国してしまっていましたが、

この時点においても、こんなに終わりのない心身の体力勝負がいつまで経っても続くなら、もっと他の日本人がしたみたいに、早く日本に帰国していればよかったかもしれない、というか、

 

「最初から専業主婦になっていればよかった」

 

とアメリカで中途半端な状態にいる自分を見て初めて後悔したのです。

 

理解しあえるパートナー・仲間がいればまた別だったのでしょうが、自分のような特異な存在は周りからも孤立するばかり、理解されるどころかまったくその逆の状態が続き、

そしてそういった誤解や反感と戦い続けるのにも疲れてしまったのです。

実は新しい就職先で、いくつか大きな成果を上げている間、徐々に精神的に限界を感じ、ついに2017年に離婚、少し自分だけを見る時空間を持つようにしました。

このときに切に感じたことは、

 

自分には良き稼ぎ頭、良き母、そして良き妻の三役は務まらない

 

という諦め、ならば捨てられる役割は捨てるしかない、じゃないと自分が持たない、という危機感でした。

こうやって徐々に私も自分の身は自分で守る、というクールでシビアなアメリカ社会の個人主義をうたう一人と成り変わっていったわけですね…

二人目の出産以来、若い住み込みのシッターさんが日本やら外国からきて常に我々と今日まで同居しているので、今どきの言葉で言えばいわゆる拡張家族として今現在においては運営している状態ですね。

2015年の転職(地の果ての大学を蹴って、州の研究ポジションをえらんだこと)を機に、最後に少しだけ残っていた生命力を振り絞り、自分自身の状態へ徐々に焦点を当てていったように思います。

 

理解しあえるパートナー・仲間の存在、うっすらとですが、この時あたりからある人物との出会いによってそういった存在に価値を見るようになっていったとも思います。

その人物は先輩にあたる白人男性の医学者で、今こそ全くと言っていいほどつながりがなくなってしまいましたが、当時彼の方からの要請で共同研究試みたことがありました。

完全に研究に集中していた私でしたが、そんな私に対する、彼からのふとした暖かく見守るまなざしに気が付いたことがあり、もちろんそういった場面は異性と仕事をしていれば今までなかったわけでもないのですが、なんだか自分の心に響くものがありました。

信頼できるパートナーがいるってきっと素晴らしいだろうな、一人で当たり前だった自分に初めてそんな想いを与えてくれた瞬間でした(詳しくは第十三話参照)。

 

その時はまだぼんやりとしていたのですが、限界に近づいていた自分にとって、信頼のある関係を築くことがどれだけ自分に勇気とやる気を与えるか、随分後になって実感したわけです。

 

そして、もう一つ今になっていえることは、

 

信頼の欠ける環境にいる限り、

自由はむしろ自分を徐々に苦しめ追い詰め枯渇(こかつ)させる

 

ということですね。

 

この部分に関しては、また連載ストーリーの後の部分にて詳しくお話ししますね。

 

2018年8月8日、ついに政府に一人前の研究者として認められる

一方で、何とか自分の研究キャリアを軌道に乗せようと悪戦苦闘していたわけですが、解雇警告が出されて以来、先輩を頼ったり、研究系・大学のポストに面接を申し込んだり、といった職探しも同時に行っていました。

その矢先、今現在所属する研究所にて面接を受けている最中に、自分が研究者としてまだ駆け出しの時から知り合いであった、政府の健康医療の機関において高い権限を持つ、ご自身も医学者である役人の方から2018年七月、突然連絡が入ったのです。

 

その役人の方、仮にここではダイアモンド氏としましょう、は常日頃から私の頑張っている姿を応援してくださっていたようで、あまりに成果が出ないときなど、頼んでもいないのにご自身自ら

 

あきらめるな

 

といった内容のメイルを私に送ったりしてくださいました。

小規模の国家研究費をもとに、かなり可能性のある研究結果が出た際には、まるでご自分のことのように喜んで、関係する学会においてその小さいながらもその研究結果を我が物顔で発表なさっていたほどです。

 

最後の最後で「政府から認められる一人前の研究者」としての一線を越えようか、というところで地団駄(じだんだ)踏んでいた時にも、何度かお電話でご相談に乗っていただきました。

そして政府から健康医療の機関へ予算増加が承認された瞬間、ダイアモンド氏は見事にそのチャンスを逃さず、蛇の生殺しのような状態であと一歩というところで苦しんでいた私の研究内容を一番に優先され、

 

2018年8月8日に一人前の研究者として政府に認められ、国家研究費を正式に健康医療の機関から授与

 

されたのです。

 

何度もダイアモンド氏にお礼をいい、このご恩は一ドルたりとも絶対に無駄にしない、夜も眠れないほど興奮していたのを覚えています。

 

そしてこのダイアモンド氏、私に国家研究費が下りた二週間後に、なんと辞表を出され、政府から役人としての立場を引退されてしまったのです。まるで、

 

私に研究費が下りるのを見届けたかった

 

かのように…

 

ダイアモンド氏とはその後何度か論文批評を通じて、うれしいことに今でも時々交流があります。彼からのリクエストになら何でも応えます状態のオトメです^^

このように、アメリカ社会という良くも悪くもすべて自由な環境において、

 

誰にも媚びず、何が何でも徹底して自分に忠実に生きることの過酷さと素晴らしさ

 

という、己のアメリカン・ドリーム実現を通してそんな美しすぎる体験をさせていただいたと思います。

第三話からは、いよいよアメリカン・ドリームの実現を果たしたオトメがどんな風にして奈落の底へ落ちていったのか、少しずつ皆様にお話ししていきたいと思います。

 

 

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コメント

  1. […] 第二話にて実際にアメリカ社会でどういった過程を踏んでアメリカン・ドリームを実現していったかまたお話ししますが、ここで申し上げたいのは、アメリカン・ドリーム実現の本質は実は […]

  2. […] 第二話にて、私オトメがどのような過程を踏んで自分のアメリカン・ドリームの実現に至ったかを具体的に描きました。ついにきらびやかな研究キャリアを手に入れたと思いきや… […]

  3. […] 華々しく一人前の研究者入りを果たし、輝かしい未来が待ち受けていると思いきや(詳しくは第二話参照)、差別、搾取、および悪者扱いされるような出来事ばかりがおき、 […]

  4. […] そして、絶望の中、あれだけ自分で全サラリーを稼がなくてはいけない、研究のみをする研究所勤めはごめんだと思っていたにもかかわらず(詳しくは第二話参照)、 […]

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