こんにちは。
オトメと申します。☺
今このページに辿り着いているあなたへ、貴重なお時間を割いていただき大変感謝しております。
プロフィールを読まれた方でもそうでない方でも、きっとこのサイトの何かにご興味を持たれてお越しくださったのだと信じております。
このページは、ここ最近の数年のオトメのフロンティア人生を連載ストーリー化した第五話が掲載されています。
第四話にて、オトメがどんな組織的差別行為にさらされたのか、という話をしました。外国人としてのアジア系マイノリティの女性がアメリカ社会において実際はどんな目で見られていたのか、残念な話でしたが、エゲツないアメリカ社会の現実を見せつけられた経験となりました。
しかし、今からお話しする第五話においては、日ごろから懇意にしていた共同研究の同僚達でさえ、実は全く信用ならないエゲツない奴らだった、というさらに残念なお話をしてまいりたいと思います。
Contents
博士研究員時代の思い出
同僚達との後のやり取りに大きく関係してきますので、少し時間が戻りますが、博士研究員時代での経験を少しご紹介させていただきます。
自分が博士研究員だったころ、周りの本格的な研究の世界の雰囲気に気圧(けお)され、自信をなくして、いつも会議や集まりにおいて隠れるようにうつむいてばかりいました。
一応自分も博士号を取得しているにもかかわらず、見かけも頼りなく、声のトーンも高く、声のボリュームも小さく、英語もネイティブに比べると劣っている、それにくわえていつも下を向いてオドオドしているわけですから、周りから見てもはっきりいって
「こいつは何でここにいるんだ?」
と自然に思ってしまったとしても全く不思議はありません。事実、自分ですらもどうしてそんな高圧的な環境に自分から進んで入り込んでいったのかわかっていないところがありましたから。
最近愛読している政治思想家の小室直樹さんの歴史的に名を遺した人物たちについての解説を読んでいても思い当たることばかりなんですが、結局実力とかいう前に、
自信のある自分を人前で演じる
ことのできる輩は内容は別としてやはり周りを扇動(せんどう)していく立場に立ちやすいわけです。
だから学問や学士・資格を取ることも大事ですが、世界に通用するようなリーダーシップ育成には内容と同じくらい演劇・発声の訓練が必要だと思うのです。
そんな私に、恩師が(ここでは仮にメンター氏としましょう)一言、
「お前、会議で発言できない人間はこの世界では軽く見られるぞ。」
とおっしゃったことがあります。
その時は、バレた!とばかりに、ドキッとして同時にこれからの自分にひどく不安を感じたものです。
またメンター氏はよく、
「外国人としての君がこの世界でやっていけるかどうか、正直自信がない。日本に帰ることも考慮したほうがいいかもしれない。」
ともおっしゃっていました。
まあ、そういわれるのもそのはず、当時こういった本格的な研究の世界に飛び込んだばかりの私には、見てくれからして自信なさげであるに加え、
周りの人間の発言していることの半分も理解できていなかったからです。
何しろ、メンター氏の基に行くまでは医学の世界とは無縁の分野にいたので、英語的にも医学用語などにそれまでほとんど触れたこともなかったわけですから、半分も理解できていないとは
まさに文字通り、理解できない英単語の羅列(られつ)を前に
本当に何言ってんのか、じぇんじぇんわからん…
という状態にあったわけです。
まあ普通に考えたら、何やってんだ私こんなところで、って自分の場違いさをひしと感じ、もっと当時の自分にピッタリくる居場所を探しに行くのでしょうが、
私オトメの場合、博士号を取ったはよいのですが、その分野が当時活発であった仕事などに全く興味がわかず、さらに大学の教員職などもっと興味ない状態でした。
つまり、一体どんな仕事内容であるかとか、その職場がどんなであるかについて予想がついてしまう世界に全く興味がわかなかったのです。
安住の地に興味がわかないどころか、そういった職種に就職する、ましてや居場所のない日本に帰国するとか、考えるだけでも
まるで墓場に自分の骨をうずめに行く
ような気分になってしまうのでした。
これは昔からの体験も関係していると思われますが、要するに訳のわからない世界にいれば、
自分だけが失敗する、ということはなく、最初からできなくて当然という一種の自分に対する言い訳が成り立つのだと思います。
だから、どんなに大変でも、周りから大変なイジメに合おうとも、ある意味最初からできなくて当然な状態にあれば、あとは
階段を一歩一歩のぼるだけ
という妙な気楽さをそういった環境で感じていたようにも思います。
うまく言えないのですが、この一見自虐的(じぎゃくてき)にも見える行為は実は一種の自己防衛なのではないか、と後になって考察しております(詳しくは第七話参照)。
アメリカに来たばかりの時は、文字通り結婚でもして専業主婦にでもなるしか他に道が残されていませんでしたから、それはもう必死でした。
しかし、それで何とかなってしまい、博士研究員なんて当時の私からしたら信じられないような職業に就くまでに至った、という体験をもとに、それが一種自分特有の生き方である、という認識が自分の意識していないレベルで起きていたようにも思います。
え、それって究極マゾ人間?なんてあなたは思ったかもしれませんね。
私もそうなのかしら、なんて自分について疑いをかけてみましたが、どうもそうというよりは、全く別の心理が働いていたようです。
つまり、とにかく私は昔から周りとは常に一定のレベルでのズレを感じていまして、当時の日本においては、私はいわゆる出来損ない的な存在だったわけです(詳しくは第一話参照)。
したがって、決められた仕事をこなせずに周りに出来損ないであることがバレてしまうくらいなら、どう考えたって最初からできなくて当然、という環境に自分を放り込んでおけば、出来損ないというよりは、知らない世界にいるのだからできなくて当然、と堂々胸張ってられる、なんていう妙な言い訳に甘んじていられたのですよね。
実は最近息子たちを連れて日本の実家でしばらくお世話になったのですが、その時の母親の私への対応に久々に触れ、その時に気が付いたのは、
私のようなダメ人間はこの世に存在しないほうがまし、という考えが繰り返し自分の中に浮かび上がってきていた、ということなんです。
母親はかなりの完璧主義者、ということもあり、自分の思い通りに周りが動かないと理解を求める代わりに、周りの人間にいわゆる八つ当たりをする悪い癖があります。
実際私自身もそういう悪い癖を受け継ぎ、元夫にも随分辛く当たっていたと思います。まあそれでも自分自身がかなりいい加減なところがあるので、母親の完璧主義度には到底追いつくことはできませんが。
また、母親はもちろん私に一番の幸せを願っているとは思うのですが、同時に苦労してきた人でもあるので、どこかで目の前にいる人間が満足げに幸せそうにしているのを見るとイラつくようです。
なので私がそういうリラックスして楽しく幸せな精神状態にいるとそんな私の状態を無視する、なんていう厄介な性質もあるので、私なんて人間は他の人間の迷惑でしかない、この世のいないほうがまし、と思うようになっても無理はありません。
従って、カオスな環境に自分を置くことで、自分は幸せになってはいけないんだ、という自己嫌悪感を一時的に忘れることが出来たのでしょう。
どんな時代においてもどんな子供にとっても、母親の接し方ってやはり子供の自己価値観に大きく影響してしまうんですよね。
さて話は戻りますが、当時は精神科系、産婦人科系の関係の研究に携わっていたのですが、何よりもまず
精神科 (Psychiatry)
および
産婦人科 (Obstetrics and Gynecology)
の英単語が発音できなかったのです!!
そもそもなんでそんなナイーブでわけのわかっていない人間をその研究分野では著名なメンター氏が博士研究員として雇ったのか、物好きなものだ、しかし理解できない、と周りから随分批判の声があがっておりました。
何せ、その年メンター氏はこれぞ、という博士研究員の候補者に出会えず、私は六人目の候補者だったようですが、
最初にまず電話面接を行い、彼の研究グループとしては異例なことに、そのあとの対面の面接をした直後の会話において
私「(小一時間まとめとなる会話をした後)ええ、こんな場所で博士研究員などできたら願ったりです。」
メンター氏「そうか、じゃ、来なさい。」
と、採用を即決されたのです。
その時彼は、
「今年は随分な人数を面接したが、待った甲斐があった。」
と申しておりました。
実はこのメンター氏、もともとはあまり裕福とは言えない家庭に育ち、周りにグレてヤク中になるような連中がごろごろいたようです。
彼にとって、学問はキャリアのためだけでなく、学問によって彼の人生は救われたのであり、大学院生の時から今日までずっとその分野においてリーダーシップを取られてきたようです。
電話面接のときに、
私「はい、私は今の学問におさまらず、いつもコンフォート・ゾーン(ぬくぬくと居心地のいい場所)の外に出続ける、そういった心意気から、今の博士論文の研究課題をしているんです。」
メンター氏「ほう、コンフォート・ゾーンの外に出る、ね。そうやって自分から自分のやりたいことを開拓し続けるなんて、まるで昔の自分を見てるみたいだなあ。」
私「は、そうでしたか。ええ、自分は、面白い、と思えないとやる気が失せるようです。」
メンター氏「なに、博士論文の実験はいつ終わるんだね。すぐうちの方に来て、対面面接しないか。」
私「え、はい!」
その後に、一度決めた日にちをさらに変えて、なんと博士論文の実験および考察もままならない状態で、二週間後に対面面接、その場で採用していただいたのです。
今だから言えることですが、研究、という常に前進・発展・創造し続けるはずの世界において、実際にそうしている人はほとんどいません。
メンター氏にとって、
コンフォート・ゾーンの外に出続ける
これは彼の人生を象徴するキーワードだったに違いありません。
後から聞いたことですが、電話面接をした後すでに、もうメンター氏の秘書に対して
メンター氏「僕、彼女(オトメ)に決まると思うから。」
と漏らしていたそうです。
そんなドラマチックな始まりだったにもかかわらず、あまりにとんちんかんな言動ばかり取っている私を見て、さすがの彼も自信をなくしたに違いありません。
挙句の果てには、年下の博士号も取っていないような大学院生にまで、英語がなっていない、とかなんとかイジメられるようになりました。
具体的に言えば、
- 私がドアに張り付けておいたサインの英語を、大学院生の男子が赤ペンで訂正したり、
- 同じ博士研究員の同僚たちからは、なんで私が「あの」メンター氏から直接指導を受ける博士研究員として選ばれたのか、目の前で討論し始め、結果としていかに自分たちのほうが有利な立場であるか、勝手な理由付けをされたり。
もう毎日がパニック状態で、家に帰ると当時の夫に寄りかかってただ茫然と目の前の空間をひたすら見つめているだけの放心状態が続きました。
それでも、
生きていかねばならない、
自分にはもう他に行く場所もない、
日本に帰る場所もない、
というまさに
背水の陣(はいすいのじん)
※御覧の通り、後ろは海、前からは敵が襲ってくるというにっちもさっちもいかない状態のことを言います。
という状態において、ストレスのあまり、どんどん増えていく白髪を後目(しりめ)に、この世界で生きていくために何とかせねばならないと、
ある日、大学院生、および博士研究員とメンター氏のグループで科学論文を読み解く会合において、突然
私「あの、1+1=2!」
みたいな、我々の分野においては1+1=2くらい常識的な内容の発言をしてしまったのです。
完全に自分の意思に反した発言内容になってしまったので、言ってしまってからはっとして、身もすくむ思いでした。
本当はもっと内容のある、知的な発言になるはずだったのに、何をどう間違えたのか、実際に口から出た言葉は、1+1=2に相当するような初歩的な内容でしかなかったのです。
周りも、なんだ滅多に物言わないのに、発言すればそれかよ、みたいな白々しい目で小さくなった私のことを見下ろしておりました。
その時です。
メンター氏が突然そっくり返ったと思いきや、
「ななななななあーーーーんと!!!それはもっともだ。いやあ、いいこと言うなあ。」
なんて言い出したのです。
今度は周りだけでなく、私も一緒になってポカーンとしてメンター氏のことを唖然(あぜん)としてみてしまいました。
そしてそのうち、ふつふつと私の中に怒りがわいてきたのです。
バカにしやがって
明らかに初歩的なことしか言っていないのに、赤ん坊をあやすかのように私の発言に反応したメンター氏にひどく馬鹿にされたような気がして、プライドを滅茶苦茶に傷つけられたのです。
しかし、それは私オトメの大きな、大きな勘違いでした。
メンター氏は私が必死の思いで、そんな初歩的な発言をするつもりもなく、結果として初歩的な発言をしてしまった、ということを即座に理解していらしたのです。
そして、その馬鹿みたいな内容の発言をするのに、
どれだけ私が勇気を振り絞っていたのかも、全部彼にはお見通し
だったのです。
だから今度はメンター氏が一芝居打って、
私がメンター氏に注意されて以来、超がんばって発言できない自分と向き合い、必死に戦っている、その姿をサポートされたのです。
今になっていえることですが、自由と尊厳のアメリカ社会でさえ、本当に日々自己成長を心がけている人間は、私がいるような世界でさえ少数派です。
おそらく、必死に自分と戦う私の姿は、メンター氏の昔の自分を思い起こさせたのでしょう。
たとえ自分が滑稽に見えたとしても、そこまでしても私の勇気を称えたかったメンター氏。
私はこんな彼の言動を
真実の愛
と称します。
なぜなら、そんな彼の意図が理解できてから、不思議なことに、以降どんな場面においても(第二話参照)発言することがそれほど恐怖でなくなったからです。
彼のそういった行動は英語で表現するとすれば、He put himself out for me.といった感じになるでしょうか。自分を私のために捧げる、そんなニュアンスが感じていただければと思います。
メンター氏のその一芝居によって、彼の真実の愛により、今に至るまで彼に
勇気を与えられた
といっても過言ではないでしょう。
ときに真実の愛はたった一瞬で人をここまで成長させることすらできるんです。
そこまで責任感のある愛情深いメンター氏でしたが、私が博士研究員を終え、彼のもとを去ったあと、驚くことがありました。
我々国家研究費を稼いで生計を立てる研究者はどんなに成功した人間でも、研究費をある一定期間以上稼げないと、
それまでの名声如何にかかわらず、どんどん地に落ちていく、という厳しい世界です(詳しくは第二話参照)。
したがって、以前師弟関係にあった者同士ですら、その場を去った後はライバル同士でしかないのです。
それはなんと私とメンター氏の関係においても残念ながら例外ではありませんでした。
メンター氏のもとを去って研究職に就いた後も、なんどかメンター氏に連絡を入れ近況報告をしたことがありました。
ある時彼が、
「お前は一体全体何のためにいちいち連絡してくるんだよ。自慢でもしたいのか。」
なんて暴言を吐かれたのです!
あまりに予想外なことを言われ、自分は何か悪いことをしたのか、としばし茫然となってしまいました。
自分が足を踏み入れた世界の真実の厳しい姿を垣間見た瞬間だったのです。
しかしながら、やはり博士研究員時代に彼にあれだけ支えてもらわなかったら今の自分は当然ながら存在しなかった、というレッキとした事実は存在するのです。
そのことを博士研究員を終えた後にパワハラで苦しむ私の面倒を率先してみてくれた、元オバマ政権の大臣であった当時所属していた研究所の創立者であるドクター・大臣(詳しくは第二話参照)によって諭(さと)されたのでした。
ドクター・大臣による、
自分という存在は所詮はこれまでの環境と人間関係の産物でしかない
という言葉に忠実に従い、博士研究員時代に学んだことを基にして行った小規模の研究を仕上げる際に、メンター氏に参加要請を申し出ました。
メンター氏は最初戸惑ったご様子でしたが、その研究があとになって世間から注目を浴びることとなり、彼はいたく感激なさっていました。
それもそのはず、いわゆる野心の強い「デキる」研究者というのは大抵、弱肉強食、下克上、をモットーに恩師および同僚を全て踏み台として自分の輝かしいキャリアを築いていきます。
したがって、メンター氏も当然のごとく、悲しいかな、こんな私をも警戒していたわけです。
いったんメンター氏に私の誠実な想い(彼の元を去ってから彼にどれだけひどいことを言われようと、自分の研究に参加してほしいという彼に対する純粋な敬意と感謝の気持ち)が伝わるや、その後は今日に至るまで良好な安定した関係が続いております。
そして、完全に醜いアヒルの子であった私の「可能性」を信じ、人生における一大チャンスを授けてくれたメンター氏は10年後に名誉な「ベスト・メンター賞」をある著名な学会より授与されました。
その時の彼のスピーチを聞きながら、どうしてか全くわからないのですが、あとからあとから涙があふれて止まりませんでした。
どうも後から彼に聞いたところによると、彼のスピーチの内容は私に言及したものであったらしいのです。
自分が手塩にかけて育てた人材が、自分の意志で感謝の気持ちと共に自分のところに戻ってきて研究参加を求めてくることほどメンターとして喜ばしい瞬間はないとそんな内容のスピーチだったと思います。
今から考えると、涙があふれて止まらなかったのは、自分が自立したのちにどれだけひどいことを言われようと、やはり彼に絶対的な感謝の気持ちしかないことを無意識のうちに自覚したからでしょう。
さらに、最近になってメンター氏に招待され、ゲスト講演をしたのですが、その時に気が付いたことがありました。
私のほかにも若い出だしの研究者たちが発表していましたが、メンター氏の彼らに対するコメントや質問が、私の考えていた内容とほぼ100%一致していた、ということです。
不気味じゃないですか?
言おうと思うコメントや質問を常にメンター氏が先取りして言うわけです。
メンターシップや教え、というのは物質的な形を取らない、いわゆる無形な財産です。
しかし、無形でありながら、心と脳の奥底にはメンター氏と過ごした、しのぎを削った三年間がしっかりと刻まれ、その後何がどう変わったとしても、その財産は今日に至るまで存在し続けているのです。
つまり、誰かと真剣に向かい合った時間、これは永遠にあなたの一部となりあなたの中にしっかりと刻まれているのです。
先輩の共同研究者達からの搾取
メンター氏と今のように愛と信頼にあふれる関係に至るまでに、メンター氏がどうしてあれだけ厳しくそして暖かく指導した私に対してですら、いっときの間冷たい対応をしてしまったのか、それに関係する私オトメの体験を少し紹介させていただきますね。
組織的差別にさらされながらも、政府役人であったダイアモンド氏からのサポートも得て、なんとか「アメリカ政府に認められる一人前の研究者」という立場を手に入れたと思いきや(詳しくは第四話参照)、
今度はまたさらなる信じられないような、仲間内による裏切りにさらされることになるのです。
億単位の研究費が授与された瞬間より、私オトメは即座に在籍していた大学機関から転籍する準備を始めました。
それというのも、組織的差別にさらされて以来、事務との仲はさらに悪化し、研究を安心して遂行できるような精神状態ではなくなってしまったからです。
例えば、自分の指揮のもとに研究が遂行されるはずなのに、勝手に予算の内容が事務の者によって変更されていたり、こちらから連絡しても完全シカト状態が相変わらず続いたのです。
まず自分の住んでいる地域にはかなりの名門校も含めて五つほどの大学および研究機関が存在します。
その中でも二つの組織に身近に共同研究をする先輩が在籍しております。
全ての地元の組織に国家研究費の獲得についてのニュースを伝え、コミュニケーションを取りましたが、なんとその間に先輩同僚たちがとんでもない行動に出始めたのです。
彼らはどちらも年上の白人男性ですが、私の背後に潜む研究費に目がくらんだのか、突然あからさまに利己的な行動をとり始めたんです。
一人は共同研究上の予算額をごまかし、私の許可も得ずに大幅に予算を勝手に割り増しし、彼の組織の事務を通じてしゃあしゃあと私の組織の事務に提出してきたのです。
共にこれから共同研究しようという相手(ここでは仮にスネ夫としましょう)が
いきなり金の亡者化
し、私は本当に心から驚きました。
彼のほうが先輩なので指揮を執る私のサポートをするために、彼はこの研究費を何年もかけて申請している間に途中参加してきた相手です。
政府は彼の経験をもとにしたサポートがあれば、と期待してこの研究費を私のチームに授与しているのです。
その、サポートするはずの当の本人が、サポートするどころか、勝手に予算を割り増しし、私の研究を文字通り横取りしてワンマン操縦し始めてしまったのです。
しかも、予算の割り増しは、私の研究をサポートするという名目で、要は自分の抱えるスタッフのサラリーをサポートしたかっただけなのです。
妙に押しが強く、考える暇も与えない勢いに不穏な空気を感じ、やんわりと彼とコミュニケーションを取ろうとすれば、
スネ夫「いや~、これはビジネス交渉みたいなものだよ。君もうちの組織に移籍してきたらすべてが自分の傘下にうまく収まるんだがなあ」
私「…(は?これだれの研究だよ)」
スネ夫「そうだ、うちのボス(ここでは仮にジャイアンとしましょう)に話付けておいたから面接してよ。」
私「…え?(誰も頼んでないし)」
という具合で、自分勝手もいいところです。人はカネが絡むと変わるとは言いますが、あまりの変貌ぶりに私もどう対応していいのかわからない状態でした。
既にアポを取る準備をされてしまったので、仕方なくジャイアンと面接すれば
ジャイアン「あのね、うちに来るんだったら他と交渉なんてしていないでしょうね。そういうのやめてよ。」
自分は何も悪いことをしていないのに、先輩からの根回しにより、まるで自分が行きたい研究所と既に話を進めていることが裏切り行為でもあるかのような会話の流れに最初からなっているのです。
困ったなあ、と私オトメはその場の”気合とハッタリと多少の知恵”で
「いえ、実は今日ここに来たのも一つ大きな計画を練っていまして…数年単位で考えている研究プログラムなんですよ…」
と勝手に大きな計画を練っていることにし、その日はまずは初めてのご挨拶のみ、
数年したら国際的な研究も熟すから、そのときにでもまた移籍の話をしに戻ってくる、とでっちあげその場を乗り切りました。
その時点で私オトメは億単位の研究費を授与されて有頂天になり希望でいっぱいだった状態から、実はこれからが本格的な孤独との戦い、地獄の始まりなんじゃなかろうか、と徐々に絶望的な気分へ落ち込んでいきました。
なにしろ、自分の相棒すら信用できない、それでいて人生初めての規模の名誉と責任を負わされたわけですから無理もないですよね。
そこに輪をかけるようにして、さらに大先輩にあたる、他の組織のリーダーシップを取る白人男性(ここでは仮にクロコダイルとしましょう)によっても同じような扱いを受けたのです。
その大先輩の属する組織から面接の申し込みが舞い込みました。まだ自分の移籍したい研究所と契約を交わしていなかったので断る理由も見つからずに、その面接を受けて立ったわけですが、
一日の最後に面接した相手が、なんと
地元の医学者の間では有名な権力者(ここでは仮にボス猿としましょう)
だったのです。
その男性はなんとホロコースト犠牲者の末裔に当たり、有名校の医学部長を務めたあとに今の組織に内部の実質トップの座に就いた人です。
彼のオフィスに通され、皮製のこげ茶色のソファに座るよう指示され、私は緊張した面持ちで「一体なんて言って断ればいいんだろう?」と彼と会話を始める前からそんなことを考えている始末でした。
こぶしを握り締めて膝の上に置き、目の前のコーヒーテーブルの一点を見つめ続けて緊張しきった私に対し、
彼の「金の卵を雇う」と決めた時点での知性、知恵、そして執念はさすがなもので、その相手に迫られたときにはさすがの私もたじたじとなりました。
その場でYESの返事を言わせようとするボス猿に向かって、仕方がないのでまた同じ手を使い、
「あなたはいつまでこのポジションにとどまっておられるのですか。」
と聞いたところ、意外にも
「いやあ、君、いい質問するねえ~!」
と、余計に気に入られてしまい、ため息交じりに
「ああ、君がウチに来てくれたら本当にうれしいんだけどなあ~」
などと始まってしまったので、さすがにどうしてよいのかわからなくなり
「ええ、あの、即答できずにすみません!」と吐き捨てて部屋を出てしまいました。
スゴイ権力者相手になんてひどい話の折り方をしてしまったのだ、と非常に後悔しましたが後の祭りです。
ボス猿と逢ってまさか採用のオファーを断るわけないだろうとタカをくくっていたクロコダイルは、私がそれでも断り続けたのでかなりプライドが傷つかれたようです。
その後クロコダイルとの関係はどんどん悪化し、尻すぼみになりつつある共同研究とともに、今ではほとんど直接口もきかず、彼との関係は残念ながら終息しつつあります。
億単位の研究費が授与されたとたん、それまで見向きもしなかった人間たちが、私をちやほやするどころか、私を押しのけてその研究費に手を伸ばそうと、実質奪い取ろうとする先輩たちのがめつさを目の当たりにして、
残念な想いと共に、共同研究が方々で発達しつつある中、一体だれを信用していいのか信頼していいのか、まったくわからなくなり、というか誰も信じられなくなり、
さらに、これまでの命を削って努力した先に見たのは醜い人間の本性に彩られた地獄、という体験により、一体これまでの努力の意味はなんだったんだろうとどんどん空しくなるばかり、研究も楽しくなくなり、さらには生きる気力も急速に失われていったのです。
そんな中、ぼんやりと、私が博士研究員を終えた後になって、どうしてメンター氏が、電話で私に罵声を浴びせたのか、その時になってやっとわかる気がしたのです。
要するに、私オトメが足を踏み入れた世界では、いったん自分のテリトリーを離れたが最後、去った相手は全て警戒すべきライバル、という考え方が当たり前だったんですね。
それだけメンター氏も過去に何度も自分が育てた弟子に搾取され、嫌な想いをしてきたのだと思います。
実際にこういった体験を通じて、私オトメの最初の高揚した気分はどこへやら、常に周りに対して警戒心で溢れる疑り深い孤独な一研究者へと変容していかざるを得なかったのです。
それでは第六話にて自分がどんな状態へ落ち込んでいった際に決定的となった謀反者疑惑についてお話ししたいと思います。
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