こんにちは。
オトメと申します。☺
今このページに辿り着いているあなたへ、貴重なお時間を割いていただき大変感謝しております。
プロフィールを読まれた方でもそうでない方でも、きっとこのサイトの何かにご興味を持たれてお越しくださったのだと信じております。
このページは、ここ最近の数年のオトメのフロンティア人生を連載ストーリー化した第十五話が掲載されています。
第十四話にて、私オトメが自分の地球上における存在を見直し、どんなふうに自己創造活動に励んでいっているか、そして自分を確認し、発展・拡張していくということはどんなことなのか、についてお話しました。
この最終話の題名にもなっている、愛と自由の創造、における愛のある創造とは、
自分らしく人生を歩んでおりそしてその人生に喜びを感じている
状態をいうのだと私オトメは考察します。
今の自分という存在を創り上げてきたこれまでの人生とか体験を心から誇りに思う気持ち、そしてそれらがあったからこそ今自分らしい人生を歩んでいるという実感が掴めているのだという自分自身に対する愛情と感謝の気持ちが土台となっている状態ですよね。
そうすると自分をそして自分の人生を大事にする気持ちをもって毎日を過ごすようになりますから、否定的な気持ちになったり、感情が必要以上に乱れたりすることもなくなるでしょう。
そういう自分を大事にしないないがしろにするような態度自体に意味を感じなくなり、はっきりいって時間の無駄であると自覚できるようになるからです。
そうですよね、自分だけの一回きりの大事な人生の一瞬たりともどうしてそんな嫌な気持ちにならなくてはいけないの?ってなりますものね。
反対に、毎日いつでも自分が喜びと充実感で満ち溢れる状態にいるようになりますから、これはつまり、他人や社会的な縛りや抑圧から自分を常に解放し自由な状態に置いておく、つまり
愛のある創造とは同時に自由な創造
でもあるわけですね。
さてこの最終話では、自分らしい人生から始まって、私オトメがどんなパートナーおよびパートナーシップを求めているのか、そしてそこからの個の集まり、という広がりについてお話しし、この連載ストーリーを終了したいと思います。
恋愛と男女愛の違いってあるんじゃない?
さて、ここ数年を通じて自分の存在を見つめなおし、自己価値観が高まり、そして自分にとってのパートナーシップについて深く考えさせられ、
同時に日本人の方たちの経営するウェブサイトを通じていくつかの交流・体験をさせていただくに至りました。
まず自己価値観が高まったことで、自分が自分の人生の中で最も自分を喜ばせ満足させてあげられる人間であることがようやく理解できました。
ひょんなきっかけからパートナーシップについて考えさせられるようになり、それに伴うパートナーシップに関係する経験や自分の個性に忠実な生き方を通して、
孤高の状態にたどり着いた自分を受け入れながらも、パートナーの存在に焦がれ、そしてパートナーシップを模索していくうちに(詳しくは第十話―第十三話参照)、
自分の中でやっとどんなパートナーを求めているのか、そしてどんなパートナーシップを求めているのか、最近になってやっと見えてきたのです。
出会い系サイトに飛び込むところから始まって、何度となくSNSやリアルな出会いを通じて、自分の中で一つ気が付いたことがあったのです。
心身ともに愛し愛されるパートナーシップ、という漠然としたイメージをもって異性との出会いをいろいろな形を通して繰り返していましたが、ずっと一つ自分について勘違いし続けてきたことがあったようです。
それは、「男女愛」と「恋愛」をごっちゃまぜにしていた、ということなんです。
となると、自分の求めるパートナーシップとは、お互いの感情や個人的なニーズを満たし支え合ういわゆる男女の恋愛関係、ではなく
それぞれの自分らしさが活かされるような創造的な関係のことを指しているんではないかと思ったんですよね。
なぜなら、相手の個人的なニーズに応える暇があるんだったら、その時間とエネルギーを自分の自分らしく生きる人生に注ぎたいわけですから、
個人的な結びつきでしかない男女の恋愛関係というのは、本気で自分らしい人生を歩みたいと思っている人にとってはむしろ足かせとなりかねないのです。
つまり自分らしく人生を歩むことが全てにおいて大前提にあり、全てを分かち合える相手と二人で一つの大きな存在となり現実を人生を創造していく、という考えでしか自分の求めるパートナーシップは成り立たない、ということになります。
私オトメは自分一人で生きるよりもさらに壮大な人生を歩む創造的な男女の関係を男女愛と呼ぶわけですが、ここで一つ重要な条件というのがこういう関係を成り立たせるうえであると思います。
私オトメが自分で勝手に自分らしい人生を歩むのであれば、別に相手本人がすでに自分らしさを自覚し、誇りに思い、自分らしさを大事にした人生を歩まれているかどうか、というのはどうでもいい話です。
その場その場で機会があるごとに自分らしさを発揮できるだけして、皆で一つの創造物を完成させ、または結果を出し、そのほかの時間またはその後はその相手や組織とは関わりを持たなければいいだけですから。
数学的な考えで言えば、変数みたいなものです。哲学的な考えで言えば一期一会ってやつですね。一期一会とは、人生における機会を通して相手とのたった一回の出会い、でもとても意味のある出会いと交流、のことを指しています。
つまり、あくまで自分 対 社会であって、社会という相手は個人でも、グループでも、組織でも、国でもあり得るわけです。
そして、プロジェクトや機会が終了すれば、そこで彼らとの繋がりは他の繋がりとの関係によって変化していくわけです。
だから自分らしい人生を歩むうえで常に存在するのは自分一人しかいないわけですね。
それに比べると、自分以外の誰か一定の相手の存在が自分らしい人生に常に存在するようになるということは、数学的な考えで言えば自分以外の定数、ということになりますし、スピリチュアル的な考えで言えばいわゆるツイン、という存在になるわけです。
そこで重要となってくる条件が、まずは自分は相手の存在、相手らしさに自分に対するのと同じくらいの価値を見ているかどうか、相手らしさのこの世界における存在価値をちゃんと理解しているかどうか、だと思うのです。
自分という大事な存在に対する愛と敬意を相手の存在に見出せる
かどうか、という話です。
そして自分が相手の存在価値を理解できている時というのは、恋愛で言う両想いではないですが、同じく相手も私の存在価値をしっかり理解できている状態にあると思います。
つまり
二人が自然と「世界観」を共有している
という話ですよね。
世界観を共有する、またはそれぞれの自分らしい人生に自分自身の人生と同じくらいの価値を見る相手、ということになりますね。
自分の人生において何を大事に思うか価値を見るか、これは自分がどんな国や文化で人生を過ごし、その中で何をしてきたか、どんな価値観を持って周りの人間と社会と関わってきたか、で決まってくると思います。
私オトメで言えば、日本という国で人生の前半を過ごし、残りはアメリカという国で外国人の日本女性として過ごしている、自分が納得した人間や活動しかしない、研究でキャリアを築いた、などが今の自分の価値観を作り上げているわけです。
こういった自分のありのままの姿を相手の男性と分かち合えることができるならば、それぞれ一人きりで人生を歩むよりもより大規模でダイナミックな人生をともに創り上げていくことが可能となるでしょう。
どんな相手が自分のすべてを分かち合える相手なのか、もちろん相手が自分をどう扱うかなどの基本的な態度も重要ですが、こういった事も含め私オトメの最近の経験に照らし合わせると
相手の今の現状と自分の今の現状
を照らし合わせれば実に簡単に答えがわかったりもするのです。
自分を大事にするように相手を大事に出来る、これが自然とできる状態というのは、身も心もつまり二人の現実全体の相性が良い状態であるようですね。
よくスピリチュアル的な世界で歌われているツインの関係というのはこういったニュアンスが含まれているようにも思われます(詳しくは第十三話参照)。
こういった気づきに至ったのも、最近の出会いに至るまでいつもこの人かなと思う出会いのあとに私と相手がお互いの関係に求めている部分に相違があることにしばらくたつと何度も気付かされたからです。
私としては男女として惹かれ合い敬うという事実がお互いの目に明らかになった以上、さっさと距離を縮めてお互いを励まし合い、そして共に創造の道を歩むような関係づくりをしよう!というモードになっていくわけですが、そこで必ず関係が前に進まなくなるような事態に陥るわけです。
一見それは不可抗力的な外部因子によるものだ、と思われがちなんですが、お相手が二人の関係に求める要素が違うために、不可抗力的な外部因子によって関係を前にすすめることができない、と無意識レベルで言い訳をしているように私には思えるのです。
不可抗力的な外部因子になりうる例として挙げられるのは、
- 既婚である、
- 年をとってしまっている、
- 今の職場を変えることはできない、
- 遠距離である、
- 私の言動のために急に好きかどうかわからなくなった、等々になります。
どれをとってもお相手にはどうすることもできない外部因子となりうるわけです。
つまり、どの方もどうやら恋愛を楽しみたい、または恋愛がお相手にとって最重要課題なのであり、真剣に二人の関係を未来に託すなんてことはこれっぽっちも現実的に考えていないわけです。
自分的には異性との出会いの初期に起こる恋愛モードというのは、最も楽しくて楽な時期であり、問題や障害に悩む時期ではないと思うのです。
なぜなら自分の個性に忠実に生きようとするなんていう創造の人生は、ある意味世の中の流れに反目し背を向けて自分の道を切り開くわけですから、自分自身にすごく負荷がかかるのです。
したがって、お互いの愛を確かめ合う段階で躓(つまづ)いているようでは、それぞれが自分らしい人生を歩み一つの世界を創り上げていくどころか、そういった生き方のむしろ邪魔をしかねなくなるわけです。
つまり、男女愛を育むことを私はしたいのであって、それは喜びや安らぎに満ち満ちた創造的な体験であり、
お互いの愛を確かめ合い自分を相手を信じていくという、男女愛を育む前段階に当たる、愛を学ぶという恋愛活動にエネルギーを費やすことには自分は興味がないようです。
例えば、お互いの気持ちを探り合い、愛情深い言動を相手から引き出そうとまたは与え合おうとするのが恋愛活動だとすれば、
男女愛を育む場合には、どんな交流においても既に喜びと充実感に満ちたものとなっているという違いがあるでしょう。
また、自分の人生を大事に生きることが結果として相手の人生を大事にするほどお互いの人生の相性が良ければ、自然とお互いの人生を見守り、励まし、支え合い、そして外部からの攻撃を守りあうようになったとしても不思議ではありませんね。
最近の自分と全く異なるそれでいてピッタンコな白人男性との出会い
こういった自分の中での理想の男女愛についての考察がある日突然全く自分が予想もしていなかったような流れである白人男性との出会いを通じて現実化する日がやってまいりました。
またその白人男性自体も全く今までの自分では想像もつかないようなタイプの人間だったのです。
実はこれまでのオトメの人生は常にそういったことの繰り返しでした。
後になって自分の人生に決定的な影響を与えるような出来事や出会いというのはいつも当時の自分が全く予想もしていない状況で起き続けてきました。
ふとした何気ない相手との会話がアメリカ留学への道を築き上げたり、何となく参加したイベントで出会った相手から人生の奥義を学ぶことになったり…と数を上げればきりがありません。
むしろ、残念なことでもあるのですが、私オトメがそれぞれの時点において心から望んでいた道、結果、相手こそほとんどの場合見当違いであったり、現実に叶うことがなかったりしたのです。
しかしですね、振り返ってみれば小学校のころから
- 女性としてというより一人の人間としての人生を全うしてみたい
- 自分が楽しいと思える人生を歩みたい
- 自分にしか歩めない人生を歩みたい
- 自分が心から尊敬できるような恩師と出会いたい
- 自分が納得するような舞台芸術に没頭してみたい
- いろいろなプロフェッショナルの人たちと仕事をする人になりたい
- 自分の手で自分の人生を築き上げたい
- 何としてでも研究者として大成したい
- 世の中に実際に役に立つような研究をしたい
- 奇跡に満ち溢れた人生を歩みたい
- そして、最近になってようやくですが、男女愛を育むことのできる相手と出会いたい
面白いことにいつも全く予想外の様相ではありますが、こういった自分の中に秘められた抽象的な内容の人生に対する願いというのはこれまで全て叶えられてきました。
というか、こういった願いがいったん自分の中で起きると、最初はボーっとしていた自分もしだいにその願いに取りつかれて行ってしまうのです。
最初に願いが自分の中に浮かんだ状態というのは、自分が抱いた願いというよりは、むしろどっかから与えられた願い、というほうが正しい表現だと思います。
そしてその願いに思いをはせているうちに、だんだんそれが本当に自分の中で切に願う願いとなってその願いのとりことなるわけです。
この夏、二人の息子をコロナ禍の関係もあって東京の実家へと預け夏休み中彼らが日本に慣れていく様子を見守っていたのですが、
長男がある日一言「アメリカに帰りたくないなあ」と日本での生活を楽しんでいる様子を表現した瞬間に、
「あ、今度は私の番」
という息子たちが日本で頑張っている間自分の幸せを徹底的に追及する心の準備が出来たと思います。
ちょうど息子たちを遠くから見守っている最中に、コラム記事でも何度か登場してきたイスラエル人の同僚の女性が最近オトメの住む地元に二人のお年頃の娘さんたちと一緒に引っ越してきました。
もうかれこれ十年ほど知り合いの女性なのですが、最初はプライドが高くとっつきにくい感じでしたが、最近はお互いに随分慣れて徐々に仲良くなってきました。
コロナ禍ということもあってアメリカで外食なんてほとんどしなかったのですが、彼女とその幼馴染の女性と三人で路上のテーブルに座って外食を何年振りかで楽しんだり、結構仲良くさせていただいております。
その同僚の彼女がやたらと私にアメリカの出会い系サイトへの登録を進めてくるのです。
日本の出会い系サイトでちょっと懲りたオトメはアメリカの出会い系サイトなんてもっとわけわからん人たちであふれているのではないかと最初は適当にあしらっておりました(詳しくは連載ストーリー第十一話参照)。
ところが彼女自体も離婚して十年余り経っており、要するに一人で登録するのは気が引けるから私を引きずり込もうという魂胆だったようです。
あまりにしつこいので、じゃあ適当にサイト検索でもしてみるか、といくつか代表的なサイトを見つけ、基本登録だけして近場で会えそうな相手を検索してみるのですが、どう頑張ってもお世辞にも魅力を感じる男性というのは登録しておらず、
「う~ん、ちょっと厳しいかも…」
と悩んでいたところ、
有料で登録すれば、キャリアで頑張る人たち同士が出会えるサイトがあるというを発見し、そういった関連のサイトに基本情報を適当に打ち込んでみたところ…
いきなり数日たって、「マッチメーカー」という職業を名乗るアメリカ人の男性から電話がかかってきたのです。
その男性というのは電話に出るや否や
「もう、何度電話したら電話に出るんだよ。留守番電話とか聞いた?」
なんて結構図々しい様子でというか、半分いら立った様子でオトメとの電話に対応してくるではありませんか。
私オトメとしても結構ランダムに基本情報を適当に入れていたため、
「あん?」
ってなもんで、
「マッチメーカー・サービスって何?」
状態でした。
要するに日本で言えば婚活相談所みたいな場所ですが、写真とかは最初から見せることなく、あくまで性格的な相性や身柄・背景の相性や好みを基にプロの方が恋のキューピッド役を果たしてくれる、っていう有料のサービスのことだったんです(詳しくはコラム記事参照)。
従って、出会い系サイトとは違い、プロの紹介者という人間が出会いの場に介入してくるわけですね。
実はこのサービスを知ったとき、オトメは心から感心したものです。
「なるほど~、こういうプロの人間を使えば変な詐欺とか狂人につかまって人生滅茶苦茶にされることもないかもな。」
と心から納得したわけですが、当然お値段もそれなりに張るわけですね💦。
しかし、ここでもまた意外な出来事が重なり、たまたま私を最初のマッチングサービスのオーナーに通したカウンセラーのスペイン系の若めの女性との
連れション中の何気ない会話
を通じて、意外や意外な流れの先に
私オトメの運命の相手
ともいえる白人男性との出会いを見事に果たしたのでした(詳しくはコラム記事参照)!!!
因みにあまりに電撃的な出会いと関係の発展に自分自身がついて行っておらず、もともとこういった世界に私の背中を押してくれた当のイスラエル人の同僚の女性には未だ彼の存在は話しておりません…
それというのも、実はこの電話をいただいたマッチメーカー・サービスのオーナーの男性がかなり怪しい人物であることが後から判明し、その後に雪崩的に起きた衝撃的な運命の彼との出会いにいたるまでの流れがあまりに非現実的というか、普通の感覚では理解不能であることが予想されるので、
同僚でもある以上、自分の社会的信用を守るうえでも、今現在運命の彼との交流はごく限られた人間にしか話しておりません…
しかし、私オトメの人生背景全てが運命の彼にとっての理想そのものであり、
私の存在全てが彼の理想通り
そして私から見ればまさに
自分の全てを分かち合える相手
であったがゆえに、
まだ出会って短い期間ですが、すでに半同棲的なお付き合いをさせていただいており、そして上記に記したオトメの理想とする男女愛の筋書き通り、お互いの愛を確認する時期はほんのわずか、もうお互いの人生と現実をすり合わせて統合させていく男女愛を育む段階へとすでに突入しているようです!
このお話を読んでいるあなたにぜひともお伝えしたいことは、
自分の中にしつこく沸き起こる願いというのは、どんな形を取ろうとも必ず現実化する
という事実です。
これまでの願いというのは、自分に何もかもピッタリな運命の相手というほど精密な内容でもなく、大抵の場合においては自分の力でどうにでもなる部分が大きかったからです。
しかし、今回の運命の彼との出会いを通じて、私オトメはこのようにしっかり確認したわけです。
運命の相手との出会い、については実は私オトメはかなり自信がなく、まさかここまで身も心も魂もピッタンコな運命の相手が本当に現実に存在するとは思いませんでした。
ピッタンコ度合いは半端ではありません。
彼が理想とする女性像は、
- かなり年下
- 外国で育った
- アジア人女性
であり、彼の理想とする男女関係は
- 真実の愛をどこまでも追及する切っても切れない濃密なパートナーシップ
であり、そして彼の家族の歴史やキャリア背景を基にした退職後に臨む彼の理想の人生像というのは、
- おそらく現時点において私オトメのほかに適切なパートナーはいない
というくらい、これまでのオトメのキャリア内容そしてこれからオトメが成し遂げようとしているキャリア内容(詳しくは連載ストーリー第十四話参照)にピッタリとくる内容だったんです。
彼の年齢、家族背景、キャリア内容などどれをとっても全く一か月前のオトメには想像もつかなかったような相手だったのですが、
私オトメのこれまでの人生に余裕で匹敵するほど強烈な個性と人生
を歩まれてきた男性であります。
そしてこのように完全に波長が合う相手に会うと何が起きるかといいますと、初対面から何時間会話していても全く疲れを感ぜず、トイレに立つのも忘れるくらい会話に没頭してしまったりするのです。
人生背景や世代、人種や文化の全くと言ってもいいほど異なる男性相手に英語でなされる初対面の会話に自分が疲れも感ぜずトイレに行くのも忘れるくらい何時間にもわたって没頭するなぞ、日本語で会話していても極度に相手に気を回してしまいぐったりと疲れてしまう傾向にあるオトメにとってはあり得ない話でした。
さて、ここまでの気づきを得ることで、2021年に入ってから自分の求めるパートナーシップについてようやく自覚するに至ったのですが、
最近になって、小室直樹さんという2010年にお亡くなりになられた思想家の方の、日米を股にかけた政治的、法的、そして経済的な思想にふれる機会がありました。
彼は政治思想家であるのみならず、心理・社会学方面においてもその道の祖とされる方々から直々に指導を受けていらっしゃり、私の専門、経験や考え方ともかなり通じる部分があります。
彼の徹底した包括的かつ独創的な思想に触れているうちに、私は日米と股にかけた日本女性として、実はすでに研究や事業という形で自分の考えを反映するような社会活動を行ってきたんだ、と再度自覚するに至りました。
そして、一つの世界観を共有する、しかし男女である以上に対照的な存在でありながら補完し合う人生背景を持った二人がそれぞれの自分らしさを発揮して生きたなら、
小室直樹さんの脳みそのように、それぞれが己の人生を全うすることで自然と二人の現実が一つとなり、一つの完成された世界が創り上げられていくでしょう。
過去の経験から、また自動書記で書かれた本によれば、自分の中で起きる認識というのは、すでに起こっている現実を描写しているに過ぎない、といういうことです。
まあ、だから彼との関係が私オトメの理想とするパートナーシップとなればいいな、というよりは、彼との交流で起きているパートナーシップをオトメが「自分の理想のパートナーシップ」と定義しているだけなのかもしれません。
クリシュナムルティの名著である「自我の終焉」によれば(詳しくは第十四話参照)、現実でマッハのスピードで起きている変化に比べると、人間の認知のスピードって相当遅いらしいです。
自分の外部ですでに起きつつある現象に対して自分が一歩だけ早く具体的に察知しているというだけの話、ともいえますね。いわゆる経験によって磨かれた直観力ってやつですね。
人生というのは自分が創造し、そして自分や現実が創造され、その結果として現在の自分および現実が存在する、いわゆる一人芝居なのであれば(詳しくは第十四話参照)、
自分の経験から、新しい認識が産まれ、またそれが次の現実を創り上げ、それを体験した自分はまた新しい認識を持ち…というサイクルが繰り返されていくのです。
私が心から慕うジム・サイモンという天才数学者およびおそらく世界一の投資家でもある高齢の白人男性がいらっしゃいますが、
ひたすら理論数学というマイワールドを追究し続け、誰にも達したことない投資利益率を維持する数学的モデルを発明した
自分らしさを貫きまくった、創造の人生の代名詞、みたいな未だ現存する人物です。
ジム・サイモンも含め、人生において創造の極みをいく人たちの多くは
「なんか面白そう・楽しそうだから自分で体験してみたかったから。」
「どうしても自分で解明して見たかったから。」
「きっと素晴らしい世界が広がっているにちがいない、と確信していたから。」
みたいな、あまりはっきりとした根拠のない直観に近い理由で、誰も足を踏み入れたことのない創造の世界に人生かけてどっぷりとつかっていく、そして気が付けば一つの新しい世界が完成していた、という結果になっているようです。
きっとこれを二人が行えば、男女とか科学・政治とか相対的なバランスの保たれた一つの新しい世界が完成するのでしょうか。
自己創造、パートナーシップ、そしてネットワーク
さて、長ーい時間をかけてようやく自分の個性や自由で能動的な生き方を意識し、
それを徹底させる活力の源となるパートナーおよびパートナーシップについてもやっと理解できた今、
どういった文化的社会的文脈に自分という存在を放り込むかという話につながってくるかと思います。
今まで散々お話ししてきたように、私オトメもかなりありとあらゆる方面にて揉まれに揉まれてきているので、
自分が同じくパートナーに求めるように、やはり基本的に自分に忠実な人たちと繋がっていきたいとは思います。
ロバート・清崎さんというビジネスマンの方がとても具体的にこの内容について言及していますが、自立している者同士がつながる場合、
そこには組織ではなくネットワーク
が存在する、というわけです。
イメージ的には、組織というのは囲われた枠組みの中にごっちゃになって個が存在する状態、そしてネットワークというのはそれぞれの立場を確保して存在する個同士が線でつながっている状態、となりましょうか。
ネットワークというつながりの中では、個性を犠牲にせずむしろそれぞれの個性を最大限に生かす方向に持っていくので、
個人個人も満足しそして社会・文化全体も活性化していくこと
が可能となりますね。
いわゆる、Win Win状態となるわけです。
これはかの有名な経済学者、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハも実は昔から主張している内容であり、彼は経済学者ですから
市町村というコミュニティを個の単位
と定義しています。
そのコミュニティ毎の特徴や個性に合った、適材適所のやり方というものがあるわけで、
会社や国などの組織上のヒエラルキーの元に画一的な方法を一方的に押し付けても、中心部への依存と中心部からの支配構造を促進するのみであり、
この状態においては人間社会の経済活性の最大化を目指すことは不可能である、と述べています。
となると、中心核を維持するありとあらゆる組織で溢れかえっている人間社会は抜本的な改革が必要となるわけですね。
しかしながら今現在においては、インターネットの発達、スマートフォンの発達により、個人がありとあらゆる世界、社会において活躍することが本当に簡単にできるようになりましたね。
個人細分化がここまで発達した今、今度はブロックチェーンなどの概念やプログラミングを応用して個人同士がどのように効率的にそしてかつ安全に繋がっていけるか、インターネット上のネットワーク作りもどんどん発達してきているようです。
もうこの現代において
所属
という概念自体が時代遅れなのだと私は思います。
最後に、冒頭に申し上げた通り、また私オトメの連載ストーリーを総じて描き出してきたように、ご自分の個性を具現化する創造で満ち溢れる独創的な人生にあなた自身が励まれていくことを応援してやみません。
そして、そこから独創的な個の集まりであるネットワークが発達していけたら
それこそ
ジム・サイモンも顔負けのあなたならではの人生
といえるのではないでしょうか。
ブログランキングにおける健康と医療の二部門において一位達成!!
ブログランキングおよびブログ村にポチっと御願いします!!
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
私オトメと公式ラインでつながってみたい方はぜひ以下のボタンを押して友達になってくださいね!私オトメのハチャメチャなアメリカ生活から生の声をお届けします!直接オトメとチャット、お話してみたい方、海外・英語関係のご相談などもウェルカムですよ~。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
コメント